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「それだけ思い詰めていたんですね」

 森九段が振り返る。

「私の一門(大友昇門下)の兄弟子も、三段リーグで勝てなくなったとき、不運にも家族の借金問題が重なり、ガス管をくわえ自殺してしまいました。将棋しかできない人間が思うように勝てなくなったとき、自分の存在意義を完全に見失うことはよくあることです。里見が休場すると聞いたとき、これまで見てきた奨励会員の苦しみが、彼女の姿と重なって見えました。私はただの奨励会員でしたが、彼女は女流の看板棋士でもあった。外からはうかがい知れない重圧があったと思います」

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羽生善治九段(右)、佐藤康光九段(左から2番目)と控室で検討する先崎学九段(左) ©弦巻勝

 2018年、ある棋士の手記が将棋界で大きな反響を呼んだ。先崎学九段の著書『うつ病九段 プロ棋士が将棋を失くした一年間』(文藝春秋)である。

 先崎九段と言えば、明快な語り口の解説、また軽妙なコラムでも知られる羽生世代の人気棋士だが、いわゆる優等生タイプとはかけ離れたイメージの先崎九段が、重度の「うつ病」に苦しめられていたという告白は、将棋ファンのみならず、多くの日本人に驚きをもって受け止められた。

 先崎九段とも親交のある、森九段が語る。

「いまだから言えることですが、私も現役時代、うつ病を抱えながら将棋盤に向かっていました。当時はまだ、うつ病が社会のなかで正しく認知されていない時代で、気分が落ち込んだくらいで誰かに相談したり、病院に行って治療を受けるなどということは考えられなかった。特に棋士は、強力なライバルたちがいる手前、自分の弱みを簡単に明かすことはできなかったのです」

森雞二九段

「うつ病とは死にたがる病気であるという」

 現役時代、数々のビッグマウスで物議を醸したこともある森九段だが、それは繊細で内気な「本当の自分」を鼓舞するための演技であったのかもしれない。

「いまの基準に照らせば、私は完全にうつ病、正確に言えば躁うつ病(双極性障害)でした。1年のうちわずか数日ですが、ひどい負け方をしたり、大一番に負けたりすると極端に気分が落ち込み、将棋が指せなくなるほどのどん底状態に陥ってしまうのです」

 先崎九段は前述の著書において「うつ」の症状をこう表現している。

<うつ病の朝の辛さは筆舌に尽くしがたい。あなたが考えている最高にどんよりした気分の十倍と思っていいだろう。>

<頭の中には、人間が考える最も暗いこと、そう、死のイメージが駆け巡る。私の場合、高い所から飛び降りるとか、電車に飛び込むなどのイメージがよく浮かんだ。つまるところ、うつ病とは死にたがる病気であるという。まさにその通りであった。>

 若き日の森九段が死を意識した逸話と、符合する点は多い。