「失敗すれば野垂れ死ぬだけだ。大丈夫だ」
1933年生まれの山田道美九段は、打倒大山康晴を掲げ、順位戦A級6期の実績を持つ昭和の名棋士である。山田九段は1970年、A級に在籍しながら「特発性血小板減少性紫斑病」という難病のため、36歳の若さで急死した。
「大変面倒見の良い先生で、私が四段昇段を決めた対局の前日にも、当時は高級メニューだったハンバーグ定食をごちそうしてもらい、『セロリも食べられないようでは四段になれないよ』とユニークな激励をいただきました」
山田九段は、職業としての棋士の存在意義について考え抜いた哲学者であった。「しょせん娯楽に過ぎない将棋を究めることに、どんな意味があるのだろうか」――若き日の山田の苦悩は、まだ棋士の社会的地位が低く、偏見も強く残っていた時代、切実な重みを持つものだった。
森九段は、奨励会時代に山田九段からかけられた言葉を、一生の財産にしている。
「迷える青年だった私に、山田先生はこう言いました。『迷うな。やるしかないんだ。失敗すれば野垂れ死ぬだけだ。大丈夫だ』とね。さんざん、棋士の在り方、心の持ちようについて考え抜かれた先生だっただけに、その言葉は重かったですよ」
どこにも救いが見当たらないこの言葉を聞いたとき、逆に森九段は気分が楽になったという。
「誰しも、長い人生のなかで迷うことがあると思います。そんなとき、山田先生はいつも『迷わずやれ』と言いました。今回、弟子の里見がそれを実践してくれたことはうれしかったですね。棋士が野垂れ死んでも、将棋は死にません。山田先生は、そのことを言いたかったのでしょう」
青春の苦悩を通り過ぎ、新たなステージに立つ里見五冠。五番勝負はいよいよ第二局を迎える。