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 昭和4(1929)年、母は千葉県館山市の漁師の家で12人兄弟の10番目として生まれました。母の母、つまり私の祖母は、13人目のお産のときに44歳で亡くなっています。母は10代で戦争を経験し、学徒動員により軍需工場で零戦のボルトを締める作業をしたそうです。16歳で終戦を迎えると、20代でオフセット印刷工の父と結婚。その後パートで働きながら3人の子供を育てました。

 私が初めてオーディションを受けたいと言ったとき、「私は勉強も芸事も好きだったけど、戦争があってできなかった。あなたたちは好きなことをやれる時代にいるのだから、好きなことをやっていいのよ」と話してくれたことがありました。

 母は、私が俳優になって以来、子育てをしながら仕事をするようになってからも、ずっとそばでサポートしてくれていました。母を知る旅を通して、母は私と一心同体となり、私を通して世界をみていたのかもしれないと思うようになりました。だから「15の時から女優やってるの」という言葉が出てきたのかもしれません。

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 だったら女優であることを“既成事実”にしちゃえばいいんだ――。

エンドロールに「全ての母に捧げます」

 そうひらめいた私は、iPhoneで母を撮りはじめました。撮影には、長男でVFXアーティストの石橋大河と妻のエマニュエル、長女でシンガーソングライターの優河、次女で女優の石橋静河らも協力してくれました。こうして生まれたのが、ドキュメンタリー映画『女優 原田ヒサ子』です。2020年3月に公開し、母は90歳で映画デビューを果たしました。

ドキュメンタリー映画『女優 原田ヒサ子』 ネットフリックスで配信中 ©MiekoHarada

 映画のエンドロールには「全ての母に捧げます」という言葉を贈りました。母を知る旅に出てファミリーヒストリーに触れ、子どもたちと映画まで制作することになって。祖母から母、私、そして子どもへと、命のバトンが引き継がれて私は今ここにいるんだと、強く意識するようになりました。

 生きとし生けるもの、みんなそうやって代々命を繋いできたんだなと。それで全てのお母さんに「ありがとう」と感謝したいと思ったんです。もちろんお父さんにも。

 映画公開初日に『百花』の監督の川村元気さんがいらしてくれました。映画をご覧になって、認知症が進んでいく様を間近でみた私であれば、映画で描きたいものを理解して演じてくれると思ってくださったみたいで、出演のお話をいただきました。母の言葉がまわりまわって映画に出ることになるなんて。母のおかげで素敵な作品に出会えました。