選挙演説中に凶弾に倒れた安倍晋三元首相の国葬儀が9月27日に迫ってきた。時事通信の世論調査によると、「反対」が51.9%であるのに対し、「賛成」はわずか25.3%。岸田内閣の支持率は9月には発足以来最低の32.3%に落ち込むなど、国民から歓迎されないなかでの強行突破となる見通しだ。
日本における「国葬」の萌芽は、1878年(明治11年)に「紀尾井坂の変」の暗殺で命を落とした大久保利通の葬儀にさかのぼる。葬儀が行われたのは、大久保が暗殺されてから3日後。巡査の初任給が6円であった時代に総経費15000円という莫大な費用が投入され、警備には警察ほか3500名が動員されるなど、国の威信をかけた大規模なものだった。
大久保を含め、日本の国葬の歴史を研究してきた中央大学の宮間純一教授は「国葬の歴史からみると、安倍氏の事例は考えさせられることが多いです」と語る。
「日本の国葬の原型」と呼ばれる大久保の葬儀と比較することで浮かび上がってきた、安倍元首相の国葬儀の特異性とは――。
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大久保利通暗殺事件、通称「紀尾井坂の変」が起きたのは、1878年5月14日。大久保は、出仕のために清水谷(千代田区)を走る馬車の中にいた。大久保を狙った暗殺の実行犯は石川県士族・島田一郎を中心とする6名。最年少の杉村文一はわずか17歳だった。彼らはカモフラージュのために花を持って大久保の馬車を待ち受けて襲撃し、殺害。犯行グループは直後に自首するが、落ち着き払った態度で、笑みを浮かべた者すらいたと伝えられている。
暗殺は政府転覆の危険性をはらんでいた
――大久保の暗殺は、当時の日本社会にとってどれほどの出来事だったのでしょうか。
宮間 内務卿を務めていた大久保利通は、この時の政府の最高実力者でした。当時は王政復古からまだ10年ほどしか経っておらず、前年には西郷隆盛を担いだ西南戦争が起きるなど、政権はまだまだ不安定な状態でした。そんな状況で政府のトップが暗殺されたのですから、さらなる反乱につながる可能性さえある大事件と認識されています。
――資料によれば、大久保は全身に14箇所の傷を受け、トドメで喉を突き刺した刃の先端は地面に刺さっていたとまであり、相当恨みを買っていたことが分かります。
宮間 新政府の重要人物だった大久保のことを、襲撃犯たちは薩摩・長州藩出身者を中心とした藩閥による専制政治の象徴とみなしていました。島田たちが暗殺時に所持していた「斬奸状」(暗殺の趣意を記した文書)には「公議」(おおやけに議論すること)を途絶えさせ、民権を抑圧し、政事を私物化しているなど5つの非難が記されていました。