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――警備体制は十分だったのでしょうか。

宮間 当時は、西南戦争や立志社の獄(高知県で西南戦争に呼応して旧土佐藩の士族が挙兵を企てたとされる事件)が片付いたあとで、警備に対する意識が緩んでいたことを指摘する史料が残っています。大久保の暗殺をきっかけに、政府は要人が外出する際の警護を厳重化していきます。

描かれた犯行グループ(『島田一郎梅雨日記 五編』高知市民図書館・近森文庫蔵)

――そして、大久保の「国葬」が行われたわけですね。

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宮間 当時の日本には「国葬」という制度や前例がなかったため、大久保の葬儀は実は正式には「国葬」とは呼べません。ただ、大久保亡き後の政府の実力者だった伊藤博文らが国葬としての体裁を整えようとしていたことはたしかであり、国葬に準ずる規模で「天皇と国民が一人の人物を悼む儀式」として盛大に催されました。なので、正式な国葬は1883年の岩倉具視が初めてですが、大久保の葬儀が「国葬の原型となる葬儀」といわれています。

――国葬を巡っては現在、国会の審議を通さずに閣議決定で実行しようとする岸田文雄首相に批判が集まっています。大久保の時は、政府の中枢にいた伊藤博文らが強行したということなのでしょうか。

宮間 当時は、大久保のような規模の葬儀は前例がなかったので、実施のための手続きは明確ではなく、曖昧でした。そしてポイントは「国葬」ではなく、「国葬に準ずる葬儀」であるということです。実質的には伊藤博文ら政府の関係者や大久保と同じ薩摩藩の出身者が仕切っていましたが、建前はあくまで大久保家の私的な葬儀だったのです。

宮間純一氏

大久保の葬儀は暗殺のわずか3日後

――大久保の葬儀は、暗殺からわずか3日後に行われました。規模を考えるとかなり急な印象を受けますが、政府はなぜ国葬を急いだのでしょうか。

宮間 国内の不平分子を押さえつけるためでしょう。大久保暗殺の主犯格である島田一郎は西郷隆盛が下野するきっかけとなった征韓論を支持し、西南戦争に呼応しようとしていました。また、斬奸状には明確に政権批判が記されています。そういった思想のもと、現政権を倒すというテロとしての政治的意図は明らかだったので、「犯人のような思想は許さないぞ」と主張するためにも葬儀を急いだのでしょう。天皇の哀悼の意思を示しながら盛大な葬儀を行ってみせることで、「政府は一切揺らいでない」ということを国内外に示そうとしたのです。それにはスピードが重要でした。

――それにしても3日間で準備をしたとなると、かなりのドタバタがあったのでしょうね。 

宮間 まずは物品の準備が大変だったと思います。椅子250脚、馬車26輌などを、あちこちの省・部署からかき集めています。そのほか、西洋酒15箱、菓子折・赤飯折各1000個などが用意されました。あとは外国の公使などに送る招待状の文面なども、外国語でどういう表現をするのが相応しいかを判断できる人間が葬儀の実施チームにはおらず、事務方は相当苦労したようです。