――新宿も当時はのんびりした下町のようだったんですね。
いや、でも、ちょうど60年代の学生運動の時代で、新宿では大学生たちが石を機動隊に投げたりすごかった。もう全然、勉強しないの(笑)。アルバイトしていたの喫茶店にもよく大勢でコーヒー飲みに来ていたよ。
――大学生といえば、その後、宮城さんも大学を受験されたんですよね?
いや。してません。だって勉強、嫌いだから。
――あれ? 大学受験のために東京へ出してもらったのでは?
そう言わないと父が東京に出してくれないでしょ(笑)。最初から高校出たら働くつもりだったの。それで卒業後はそのまま喫茶店で働かせてもらったんです。おもしろいから続けてみようと思って。今度は昼も夜も働いて、3年間、ぜんぜん休みなし。
喫茶店だけじゃなく、1階のピザ屋から5階のキャバレーまで階段を行ったり来たりして、いろんな形態の店を経験させてもらったんです。ホールだけじゃなくて、料理も覚えてメニューも自分で考えたり、カクテルも基礎から学んでね。
――かなり大変だったのでは?
仕事は楽しいですよ。もちろん、いろいろ大変なこともあったけど、若い時は、苦しくても逃げずにチャレンジしたほうがいい。やりたいこと、目標がないと1、2年はあっという間に過ぎてしまうから。
埼玉の西川口で小さな食堂を開いた
――宮城さんの目標は自分のお店を持つことだったんですか?
そう。自分の店を持って、自由にやりたいなと。それで、みっちり仕事を覚えたし、独立してもいいころだと思って。昭和47年の沖縄返還のちょっと前、私が22歳の時に沖縄のおやじに電話したの。こっちで店を開きたいから、開業資金の足りない分を貸してほしいってね。そしたら「ダメだ。商売はそんなやさしいもんじゃない」と。粘って粘って、最後にはなんとか貸してもらった。それで埼玉の西川口に26~27坪の店を借りて小さな食堂を開きました。
――東京ではなく埼玉で?
ええ、付き合っていた当時の彼女が、「私の地元の川口でやりなよ」って。でも、沖縄出身の私は、川口なんて地名も知らない。そしたら、「ほら、『キューポラのある街』っていう映画の舞台だよ」って言われてピンときた。吉永小百合の映画でそんな名前のがあったなあ、って。当時、川口といえばキューポラ(溶銑炉)の煙突が並ぶ鋳物の街として知られていたんです。
それでとりあえず一回、どんなところか行ってみるかという話になって、訪れてみたらとにかく広い! ビルばかりの新宿ではネクタイ締めているビジネスマンが歩いているけれど、川口は作業服を着ている職人風の人たちばかり。空き地がたくさんあって、壊れた軽自動車がその辺にひっくり返っていたり(笑)。今はもうすごく変わったけどね。