「田宮が日暮里署に検挙された当時、良心の呵責に耐えかねて大岡山事件を自白したといわれるが、その陰に、心ひそかに桐ケ谷事件の被害者6人を祭ってある桐ケ谷六地蔵に前後30余回参詣して仏の冥福を祈った事実があった」
うなされて「すまない。許してくれ」と大声を出したころのことだ。さらに田宮は大森に住んでいた時期があり、現場付近に土地勘があったことも疑いを強めたという。
驚いたことに、「警視庁史 大正編」もこう書いている。
「当時、次のような観測も流布された。すなわち、彼は桐ケ谷事件の真犯人だったのではあるまいか。そして自分の犯行が、あまりにも無残極まるものであったことを思うと、良心の呵責に耐えかねたが、さりとて自首して自分の口から犯行の事実を述べることの恐ろしさに、思い悩んだすえ、たまたま発生した大岡山事件を桐ケ谷事件の替え玉に使って良心の呵責から逃れようとしたのではなかろうかというのである」
警察の正史がこうしたことを書くのは無責任といわれても仕方がないだろう。だが、「昭和犯罪史正談」も田宮のことを「この男は結局、大岡山の犯人でこそないが、何か大きい事件の犯人に相違ないと、いまも検事の間で伝説になっている」と書いている。
「史談裁判第三集」は「田宮のように、うなされたりすることは今日では珍しくない。被害妄想患者であったと見てよいだろう」と片づけているが……。
現代の“大量殺人”は「殺人・致死事件全体の0.5%程度」
「新版誠信心理学辞典」(2014年)は、大量殺人は被害者が3人以上と定義されることが多いという。同書によれば、その発生は日本では殺人・致死事件全体の0.5%程度。
それが、大正の終わりから昭和の初めにかけては、今回登場しただけで桐ケ谷6人殺し、大岡山3人殺し、千住3人殺しと3件も。いずれも残虐で悲惨な犯罪であり、それだけ野蛮で荒廃した時代だったともいえそうだ。
ただ、金銭目的の強盗で、千住の事件のように9歳の女児まで殺す必要があったのか。そう考えると、五味の「運命論」に基づく“殺人哲学”が特異だったように思える。
いずれにしろ、約100年後の現在の無機質な無差別大量殺傷事件とは明らかに性格が異なる。不穏当かもしれないが、善悪を棚上げして言うなら、犯罪に人間臭さが濃厚に漂っている気もする。懐古的すぎるだろうか。
【参考文献】
▽「キネマ旬報増刊 日本映画俳優全集・女優編」 キネマ旬報社 1980年
▽小泉輝三朗「昭和犯罪史正談」 大学書房 1956年
▽田中良人「強力犯捜査要領」 東洋書館 1948年
▽森長英三郎「史談裁判第三集」 日本評論社 1971年
▽岸田菊伴「引かれ者の小唄」 新東京社 1931年
▽「警視庁史 大正編」 1960年
▽「新版誠信心理学辞典」 誠信書房 2014年