五味は「死刑を恐れない」とし、その理由に「私の経験によりますと」と次のように書いた。「瞬間に生から死へと落ちていく者は、意外にも眠るがごとく死ぬるものです。大岡山の人々も千住の人々も、いずれも私の目の前で、私の手によって実に安らかに何の苦しみもなく、死出の旅路へ旅立ちました」。
自分勝手な理屈だといえるが、本人は、田宮が逮捕されて獄死したことについても、「私はそれを気の毒と思うよりも、何とヘマな馬鹿野郎だろうと思い、また、つらつら考えてこれも運命だと考えましたから、別段自分の心を痛めることもありませんでした。いまももちろんそう思っています」と手記で述べている。
“品行が悪く、評判は最悪”だった五味
千住の事件で逮捕された際の1928年8月28日発行29日付東朝夕刊によれば、五味は現在の台東区浅草橋に当たる浅草区新福井町に生まれ、3歳の時、母を失い、貧困のうちに成長した。
1915年に小学校を卒業して市電運転手に。バスの運転手を経て1919年、東京市街自動車(のち東京乗合自動車)の運転手となった。同社のバスは車体をダークグリーンに塗っていたので「青バス」と呼ばれていた。
しかし長続きせず、その後運輸会社を転々。千住事件の約2カ月前、トラック運転手をしていた会社を飛び出して以降はブラブラしていた。妹と父は1925年に死亡。兄も外国語学校在学中に死亡し、当時は妻子と7人暮らしだった。品行が悪く、評判は最悪だった。
「それ以来、私はこの社会のからくりについて考えるようになったのです」
五味自身は手記で心情を吐露している。青バスの運転手だったとき、給料値上げを要求してストライキを決行したが、争議は収拾され、五味は首謀者の1人として解雇された。
「それ以来、私はこの社会のからくりについて考えるようになったのです。考えれば考えるほど私の胸には反逆の血が燃え立ってきました」。「××の闘士として一身をささげようとしたのです」というのは「アカ(共産主義)」ということか。だが、それもできず「次第次第に今日かかる運命に逢着すべき道順をたどりきたったのです」。
逮捕時の1928年8月29日付読売朝刊は、五味の自供として、大岡山事件で有力な嫌疑者とされた後、「嫌疑が晴れて後も、世間から相手にされぬようになってしまった。そのため五味は世間を呪詛して性格一変し、自暴自棄の結果、身の破滅を招いたものであることが分かった」と書いている。
いずれも身勝手な理屈で、大量殺人を繰り返したことの言い訳には毛頭ならないが、彼なりの挫折があったことは想像できる。
「私の死刑はむしろ安いと思う。田中は手伝いだから、私と同じにしないでくれ」
3月25日には早くも論告があり、2人に死刑が求刑された。この公判でも五味は「刑務所は居心地が悪くて嫌だから、早く死刑を執行してくれ」と発言。さらに裁判長に求められてこう述べた。