「私の死刑はむしろ安いと思う。田中は手伝いだから、私と同じにしないでくれ。なお、これは大罪を犯した私には言う資格がないかもしれないが、現代の社会には懐手をして大泥棒をやってる者が、裁判所では無罪や執行猶予になってる。こんな法律に裁かれるのは実に残念だと思う」(3月25日発行26日付東朝夕刊)
当時、疑獄事件で無罪判決が出ていたことを皮肉ったわけだが、ジャーナリスト岸田菊伴は「引かれ者の小唄というのはこういうものであろう??」と評した(「引かれ者の小唄」1931年)。
判決は同年4月20日。2人とも求刑通りだった。「五味は突然立ち上がって『私は即時死刑執行を願います』と述べ……」と4月20日発行21日付東朝夕刊。
同紙によれば、五味はさらに「大体日本の裁判所は悠長すぎる。私のこんな事件が足かけ4年もかかるなんて国家的損害である。裁判官の悠長にはあきれる」と毒づいたという。その言葉通り、五味は控訴しなかった。
「大正の疑獄事件」は「死刑判決を第一審で甘受した者は、この五味銕雄が最初だとか聞く」と書いている。
田中は控訴したが、控訴審でも判決は変わらず、1932年4月5日の上告審判決も死刑だった。
死刑執行は1933年3月7日。同日発行8日付東朝夕刊は「斷(断)末魔まで異る 死刑囚二人の性格 生に未練たつぷりの田中 五味は總(総=すべ)てを観念」の4段見出しを立てた。
「執行前、まず阿弥陀堂に導かれて教誨師から引導を渡されても、無宗教の彼は遺言一つせず、いかにも来るべき時が来たという姿で絞首台に立ったといわれている」(同紙)
一方、田中は「小石川白山で芸妓をしている妹が心を込めて送った経帷子(きょうかたびら=経が書かれた白い着物)を着て死刑を受けた」と同じ日付の東日は伝えている。
獄死した田宮頼太郎をめぐる謎
こうして、大岡山女優一家3人殺しと千住醤油屋3人殺しという2つの大量殺人事件には決着がついた。が、残る謎は獄死した田宮頼太郎だ。
大岡山事件での五味と田中の追起訴を報じた1929年9月26日付朝刊で、東朝は「怪奇をきは(極)める 田宮頼太郎の自白」、読売は「冤罪に泣いて獄死した 田宮の自白こそ奇怪」と書いたが、それ以上の追及はされず、警察官の処分もなかった。
実は報知は、五味と田中が大岡山事件の真犯人という特ダネを報じた直後の1928年12月6日付朝刊にある疑惑についての記事を載せている。見出しは「獄死した田宮は 桐ケ谷六人殺し犯人か 警視廰刑事部の見込」。
桐ケ谷6人殺しとは、大岡山の事件から3年前の1922年12月30日未明、府下大崎町(現東京都品川区)桐ケ谷の洋品店に賊が押し入り、手おののような凶器で主人夫婦と長男、長女、妻の妹、そして主人のいとこの男性計6人を殺害した事件。遺留品はなく、奪われた物もないとみられ、物取りか痴情・怨恨かもはっきりしないまま迷宮入りしていた。
報知の記事は、「五味、田中を大岡山事件の真犯人と断定した警視庁刑事部内に、田宮は桐ケ谷6人殺しの犯人ではないか、彼の素行、来歴は事件に1つの光明を与える有力なる人物ではないか、との説が有力に伝えられてきた」とした。
その大きな根拠として同記事は次のように書いた。