「多くの人を殺して責任を感じないか」「感じませんね。私は人を殺すために生まれてきたものと考えています」
2つの事件を併合した初公判は1931年3月6日。大岡山の事件からは約5年半がたっていた。「大岡山、千住両事件とも当時満都を慄然たらしめた事件だけに、陪審2部の大法廷もたちまち200余名の傍聴者で目白押しの満員となった」と3月6日発行7日付東朝夕刊。
審理では、風邪気味の田中を裁判長が気遣う一幕もあったが、「酒巻検事の公訴事実の陳述に入るや、一転して、ものすごい強盗殺人の状況が次々と読み上げられ、傍聴席からは、いまさらながらにため息や戦慄の言葉が漏れてくる」(東朝)という状態だった。
公訴事実について、共犯の田中は「だいぶ違います」と述べたが、五味は「全部間違いありません」とはっきり答えた。さらに「大体、両事件とも私一人でやるつもりで、田中に手伝わせる気はなかった」と陳述。「あくまで田中を かばふ五味」(東朝見出し)の態度が目立った。
五味独自の異様な“殺人哲学”があらわになったのは同年3月18日の公判。19日付東朝朝刊には小野賢次弁護士、小林四郎裁判長とのやりとりが載っている。
弁護士 多くの人を殺して責任を感じないか
五味 感じませんね
弁護士 妻の肉親を殺して、妻に対して何と思っているか
五味 自責の念に堪えず、離縁しようと思ったが、金がなく、離婚後の生活の補償をしてやることができず、離婚もできなかった
弁護士 大岡山事件に田中を引き入れ、その後、田中に対してどう考えたか
五味 気の毒したと思い、何とかして金もうけをさせてやろうと思っていた
裁判長 実際責任を感じないなら、何と思ってこの大罪を犯したのか
五味 人の生死は絶対のもので、殺された人は、私でなくとも誰かに殺される運命にあるのだと信じています
裁判長 それで殺したのか
五味 人殺しは私の終生の仕事で、私は人を殺すために生まれてきたものと考えています
逮捕され獄死した田宮を「何とヘマな馬鹿野郎だろうと…」
「豪語し平然としている態度には、裁判長はじめ満廷ただ呆然として驚きの目を見はるのみであった」と東朝は書いている。見出しは「人殺しは私の仕事 五味が法廷で豪語」。
五味が一審判決後、小野弁護士に送った「死刑になるまで」という手記には、彼の「宿命論」がさらに明確に表れている。高田義一郎「犯罪研究 大正の疑獄事件」(「犯罪学雑誌」1940年5月号所収)から抜き出す。
自分の意思によってその生まれ場所を選む(選ぶ)ことができないように、われわれ人間は死に場所をも死にざまをもえり好みすることはできません。病に死するも、自殺するも、また悪人の凶手に非業の死を遂げるも、みな運命であり、その人々が一人一人に負うて生まれた因縁なのです。私の手によって殺された中山一家の人々も、山田一家の人々も、そしてその罪ゆえに絞首台の露と消ゆる私も、みな等しく運命に操られて、たどるべき道をたどった自然の法則なのです。
かく考えると、私が犯した罪悪も、ただこの自然の法則の役目を果たしたのであって、別段これを悔ゆることも謝罪することもないと思うのです。どう考えても、私は人々のように悔悟する気はありません。