1933年11月8日、3人の司法処分が決定した。中園は殺人、殺人予備、死体遺棄で、勝美は殺人予備、証拠隠滅でともに起訴。児玉は死体遺棄と証拠隠滅で起訴猶予とされた。

 驚くことに大連日報は既に11月7日付朝刊で、罪状は少し異なるが「勝美中園は起訴 博士は寛大の處(処)分 あす司法處分決定」の見出しで特ダネ報道していた。処分の理由を記事は「勝美がわが国の女子道徳を汚し、人妻として許すべからざる乱倫生活によってこの事件を生み出したというところから同情の余地なしとして非難され、頻々たる投書となって現れているのに反し、児玉博士は学究にありがちの研究熱から事件に巻き込まれ、しかも博士が満州チフスの発見に献身的努力を捧げ、なお将来学界に貢献すべき優れたる学徒であるというので、刑事訴訟法の精神を活用。博士の処分については最も涙ある措置に出で、左のごとく処分をみるであろうと観測されている」とした。これは検察の見解そのものだろう。

事件は戦後もこうしたイメージで語られることが多かった(「夫婦生活」1949年8月号より)

 11月8日付同紙夕刊には、児玉が直前まで在籍した満鉄衛生研究所長の減刑嘆願書が大連検察局に提出され、日本病理学界の嘆願書も出されることが報じられている。

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 罪状の殺人予備は、勝美に青柳を紹介したピアノ教師・佐藤三輪子を恨んで殺害を図ったという件。死体遺棄に関わったとされた「満州おきみ」こと横山きみは不起訴に。11月9日付大連新聞朝刊には「感激に耐えません。感謝している次第で」「このうえは十分研究に精進し、学界に貢献。この不名誉を挽回、寛大なる処置に対してお報いしたいと思っています」という児玉の談話が載った。この直前には児玉と勝美の離婚届が長野県に郵送された。同じ紙面には「放たれた博士へ 早くも結婚申込」の記事が。群馬、福岡の女性から手紙で児玉の顧問弁護士に寄せられたという。それにしても、処分の違いがひどすぎる気がする。

「有閑マダムは恋愛遊戯者」

 事件への関心が高いことから、新聞以外のメディアも取り上げた。「主婦の友」1933年11月号は本山忠彦「児玉博士邸の怪殺人事件 勝美夫人愛慾(欲)悲劇の真相」を掲載。武内眞澄「猟奇近代相 実話ビルディング」には「血に彩る猟奇情痴劇 児玉博士邸殺人事件の真相」が載った。いずれも興味本位の印象は否めない。

「婦人倶楽部」1933年11月号では、ジャーナリストや教育者らが「大連情痴事件は何を語る?」の座談会。出席者の1人は「その安手の有閑マダムというのは一種の恋愛遊戯者ですね」と発言した。全体として、当時の理解の限界だろうか、勝美を「有閑マダム」と位置づけ、それを中心に論議する傾向が強かった。