関東軍司令官が裁判干渉?
同年3月15日の求刑は中園死刑、「藤森」姓に戻った勝美は懲役2年。中園には勝美に暴力を振るってけがを負わせ、流産させた傷害の罪状が加わった。検察は4時間にわたって論告。特に中園を厳しく糾弾する一方、勝美には比較的寛大だった。
ところが、ここでとんでもないことが起きる。関東庁長官を兼ねる関東軍司令官の菱刈隆・陸軍大将が同日夜、大連に到着。記者団の質問に答えたことが3月16日付大連新聞朝刊1面に載っている。「勝美の(求刑懲役)2年は短いヨ。今年、勝美は29歳だから、出獄すると31歳だ。まだまだ若いから行く末が案じられるヨ」。「ひとしきり爆笑が続く」と記事にはあるが、あまりのブームにリップサービスをしたつもりだろうが、満州と関東州の最高権力者の発言が裁判への干渉だったことは間違いない。
一審判決は同年4月12日。大連地方法院は検察の主張をほぼ認め、中園に懲役20年。勝美については、中園からの暴力を認定して懲役8月を言い渡した。求刑よりさらに寛刑だった。
大連新聞の4月13日付夕刊は、裁判長が判決言い渡し後、「児玉事件は、その内容は一言にして言えば、世にありふれた姦夫、姦婦の殺人事件の一種にすぎないが、なぜかくも社会、世人の注目を引いたかといえば」として3つの要因を挙げている。「その登場人物たる役者がいろいろの階級の取り込みであるということ、その内容が近代的エロ、グロのシンボルであるということ、及び現代世人が微温的な刺激にマヒして、かかる強度の刺激でなければ感じなくなったということ」。
1934年7月6日の旅順高等法院での控訴審判決は中園に死刑、勝美は懲役2年だった。菱刈大将の発言が影響したのか。「被告らはいずれも首を垂れ、肩を震わしていた。なかんずく中園は顔色蒼白となる」と7月7日付大連新聞は伝えた。
そして同年12月12日の上告審判決はいずれも上告棄却。刑が確定した。12月13日付同紙夕刊は、中園の表情を「再びこの世で会うことを許されぬ邪恋の相手勝美の面へ懐かしげな視線を投げ、黙々のうちに今生の名残りを告げ、静かに退廷した」と書いた。
1935年3月4日、旅順刑務所で中園の死刑執行。大連新聞は3月5日付夕刊3段で、遺言の有無を問われた中園が「何事もありません。全て承知しています」と答え、「従容として絞首台に上った」と伝えた。