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勝美と博士のその後

「暗黒日記」で知られるジャーナリスト清沢洌はエッセー集「激動期に生く」中の「文明史的に観た児玉勝美事件」(初出は雑誌掲載)で「彼女(勝美)の破綻はその放埓から来た」と述べている。彼女の貞操観は信念ではなく一種の習慣、信仰として打ち込まれたもの。それは日本の社会では全うできるが、「彼女は日本の内地を出でて、大連という植民地に行った。そこには親もいなければ親類もいない。自分が拘束されうるものは夫のみである。その夫は朝から晩まで留守にしている」。そこで貞操観を守るのは難しかったと述べる。「植民地は男の数が多くて女の数が少なく、需要・供給の関係からいっても珍重し高く買われる場所だ。そこで間違いがあるのに不思議があろうか」。彼女から貞操観を奪った要因は植民地の特殊性ということだろうか。

 勝美のその後は沢地久枝「続昭和史のおんな」の「さまよえるノラ」に頼るしかない。「ノラ」とはノルウエーの劇作家イプセンの「人形の家」のヒロイン。弁護士の妻だったが、夫に従属しているのにすぎないことを悟り、自立を目指して家を出る。「さまよえるノラ」によれば、一審の陪席判事だった平井孝雄は加納三郎のペンネームを持つ文筆家でもあった。彼の「満洲文化のために」という著書の中に判決後の1934年8月に書いたとされる「非難について――所謂“勝美事件”への反省」という一文が載っている。そこでは勝美のことをこう書いているという。

「被告は自分を人形に還元することもできず、といって、時代の常識を生き貫くこともできず、姦通という逸脱に依って問題を消滅せしめた。被告はまずノラであった。だが、ついに愚かなノラであった」

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大陸の入り口、大連港のにぎわい(「満洲帝国の興亡」より)

 ただ「ノラ」は元々は弁護人が一審の法廷に持ち出している。1934年3月17日付大連新聞朝刊には、弁護人の1人の田村弁護士がこう述べたと書いている。

「記録によると、勝美は経済的に恵まれず、果たして彼女の言う通りなら、その生活は長屋のおかみさんにも劣っている。有閑マダムというが、時間ばかりあっても、経済の伴わぬ者を有閑とはいえない。イプセンのノラは、子どもがあるのに夫の家を出た。ノラは人形としての愛に不平を持ち、経済的に妻を無能力者扱いしたのが大なる不満だったのだ。勝美の場合においても、ボーナスの顔も見たことがないような状態に置かれて、家庭生活に熱を持てというのは無理であろう。チフス菌の研究のために、家に戻れば飯までシラミに見えたという博士の学究的態度は家庭愛を度外視していたのではあるまいか」。至極もっともな主張だが、それでも、勝美の言動を振り返れば「愚かだった」と言うしかないだろう。

「さまよえるノラ」によると、勝美は1936年4月に出獄。児玉は既に再婚していた。勝美も1938年ごろ、再婚したが、夫は戦死。2人の子どもを抱えて戦後を生き抜いたが1963年、ガンで亡くなった。58歳だったという。

 一方、児玉については、出身校の後身である千葉大医学部の同窓会会報「ゐのはな」1999年5月号掲載の桑田次男「児玉誠博士頌」に詳しく載っている。一審公判中にドイツに留学。帰国後は恩師草間教授の推薦で新潟医大(現新潟大医学部)病理学の川村麟也教授の下で客員研究員に。日本脳炎の病理、病因研究に従事していたが、1937年2月に副鼻腔炎の手術後、化膿性髄膜炎にかかり急逝した。44歳だった。東朝の死亡記事は氏名の前に「勝美夫人の大連事件で世の同情を集めた」と注釈を入れた。川村教授は弔辞で「大連衛生研究所にてなせる満州チフスの研究は白眉にして、本邦医学界を飾るものとして内外より賞賛せられおり」とたたえた。