児玉博士を“奪われる”ワケにいかなかった事情
事件を振り返って、愚かだったのは勝美だけではないと思える。はっきり言って、登場する人物のほぼ全員が“ロクでもない”連中だと痛感する。
それにしても、中園の死刑はもちろん、懲役2年の勝美と比べても、児玉の起訴猶予は不可解というしかない。殺害には関与しなくても、死体を縫合しているのは確かなのだから、死体損壊の罪は間違いないだろう。
処分決定時、大連新聞紙上で大連検察官長は「児玉博士の場合は、諸般の事情が、この際罪があっても起訴を猶予した方が適当であると認めたためである」と述べた。それは児玉の研究内容と関連があるとしか考えられない。
「獣医畜産年鑑」1936年版によれば、当時児玉が病理科長をしていた満鉄衛生研究所は「伝染病が絶えないのに目立った予防施設がない満州に衛生に関わる研究機関を」と1925年に設立。当初の所長は満鉄地方部衛生課長だった、児玉と同郷の病理学者・金井章次(のち、満州国政府などの高官を歴任)。猩紅(しょうこう)熱、満州チフス、発疹チフス、ペストなどの伝染病に関する研究が主任務だった。
他の資料によると、当初は小規模だったが、拡充を続けてワクチンの大量生産能力を備えた近代的機関に。1938年、細菌戦で知られる「七三一部隊」(関東軍防疫給水部本部)に買収されて同部隊大連支部となった。当時東洋一といわれたワクチン知識、技術、製造設備が七三一の手に入ったことになる。支部長は満鉄衛生研で児玉が病理科長だったときの安東洪次・細菌課長。
満州チフスについては、「日本医事新報」1950年4月号で北里研究所病理部長を務めた笠原四郎氏が「吾等の業績 児玉誠博士――満洲チフス病原体の発見」で児玉の業績を賞賛しているが、この笠原氏も草間教授の門下生で、一時は七三一に在籍。リケッチアとワクチン、流行性出血熱の研究をし、人体実験もしたとされる。
満州チフスは七三一が兵器として手掛けたチフス菌より“効力”は弱く、兵器にはならなかったが、児玉は研究内容と組織系統、人脈のいずれでも七三一と近接した位置にいた。もし事件で退職していなかったら、そのまま七三一に入っていたかもしれない。
そんな児玉を殺人事件の被告として奪われるわけにはいかない。軍部や病理・細菌研究者、満州の関係者のそうした意思がこの事件の処分に大きく影響したと考えるのは不自然ではないだろう。
【参考文献】
▽武内眞澄「血に彩る猟奇情痴劇 児玉博士邸殺人事件の真相」=「猟奇近代相 実話ビルディング」(宗孝社、1933年)所収
▽清沢洌「文明史的に観た児玉勝美事件」=「激動期に生く」(千倉書房、1934年)所収
▽沢地久枝「さまよえるノラ」=「続昭和史のおんな」(文藝春秋、1983年)所収
▽「獣医畜産年鑑」1936年版 現代之獣医社 1936年