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 大連地方法院での初公判は翌1934年2月1日。同日付朝刊で大連新聞は「法院正に非常時 思ひ(い)やられる混雑に」の見出しで「(傍聴席の)定員は350名のこととて」「押し寄せる傍聴人は裁き難いとみえ頭痛鉢巻きの態(てい)」と書いた。

 そして、予想通り「肌刺す酷寒も物かは 押掛けた群衆1500 傍聴券1分間で飛ぶ 朝食持参で前夜からワンサカ」(2月2日付同紙夕刊見出し)という騒ぎに。「死に物狂いの群衆は警官の制止もうなずかばこそ、法廷入り口の傍聴券交付所めがけて獅子奮迅の一番乗り争いだ」「傍聴券をもらい損ねた千余の大衆は諦めきれず固く閉ざされた扉の外を埋め、寒さに震えながらなかなか立ち去ろうとせず、『350枚も傍聴券は出てないぞ。インチキをやるな』と口々に叫び、法院攻撃にメートルを上げ、せめてものことに中園や勝美の顔を見ようと熱心に頑張る」

公判で語られたあまりに赤裸々な三角関係

 公判では勝美と中園の証言で、被害者青柳を含めた三角関係が赤裸々に語られた。

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 勝美は告白書に書いた青柳の暴力を否定。中園との関係を、初恋の相手だった男性と誤解したことがきっかけだったと述べた。

初公判も大騒ぎになった(大連新聞)

「次々に展開される 桃色の情痴絵巻」「宛(さなが)ら妖婦勝美 無軌道戀(恋)愛獨(独)演会」とは2月2日付大連新聞朝刊の見出し。その公判の雰囲気は、満州の地域誌「新天地」1934年3月号に掲載された森田富義「児玉邸事件傍観記」の記述を借りよう。

「勝美はいかにして前の夫、児玉誠を(事件の)圏内から押し出さんと答弁すると同時に、自分の立場を美化せしめんと努め、あくまで女らしさたらんとしたが、中園との情痴事件、青柳との情交事件に触れるや、学者を亭主に持ち、性欲を顧みない夫との中に、一人燃え立つ肉欲の情炎を鎮静せんと苦慮したところを語り、友人佐藤三輪子の紹介で中園秀雄を相見た時より、中園と情交した老虎灘の山と海、小平島の緑林の影のきわどい場面を開陳し、また、クリスマスイブの夜、これも三輪子の紹介で新たに現れた情人・青柳貢と聖徳街広場の野天で、星を数えながら肉欲の快にふけったところを臆面もなくさらけ出し、その後も安旅館、食道楽などで密会を続けて楽しんだことを告白して傍聴者を喜ばせれば、中園は、情交関係の部分は芝居がかりの行動まで細やかに認めた」

 その後の公判でも、勝美と中園は、青柳を含めた関係を赤裸々に述べた。犯行については、4人が同席しているうち、男3人がもみ合いになり、中園が青柳を刺したことは大筋で一致したが、勝美が児玉を無関係と主張したのに対し、中園は共犯だと述べて対立。「醜き男女法廷で 興奮渡り合ふ(う)」(2月4日付大連新聞見出し)一幕も。

 勝美は「許されるなら児玉のもとに帰りたい」と述べた。いつの間にか法廷では、女性たちによる「勝美党」が結成され、厳しい寒さの中、前夜から「法院傍聴者入り口に詰め寄せ、たき火をたいて暖をとり、おもむろに待機した熱烈な勝美党もあった」(2月3日付大連新聞夕刊)という。