文春オンライン

「君たちに素晴らしいものを観せてあげよう」父親は真言宗の僧侶、朝鮮戦争に出征したことも…ジャニーズ帝国の王「ジャニー喜多川」の肖像

『芸能界誕生』 #2

2022/10/01
note

 メリーは、17歳の頃大阪松竹歌劇団(OSK)に参加。ジャニーズのデビューにも大きくかかわることになる、のちの名和プロダクションの社長・名和純子とはこの時、知り合った。彼女もOSKにおり、近くで飲食店も営んでいた。そこによく姉弟はやってきたという。

 メリーは京マチ子のような普通では後輩が近づけない大御所にも臆せず、「おはようございまーす」と部屋に入っていき掃除をしていた。だから、先輩たちに可愛がられたという。京マチ子が主演した1956年製作のアメリカ映画『八月十五夜の茶屋』の撮影では付き人のように付きっ切りで世話をした。名和は彼女を「人間関係を築く天才」と称している(※2)。

 戦後、OSKは占領軍のキャンプ回りをしていたが、メリーは得意の英語を駆使して司会をしていた。森光子と出会ったのも、この頃だという。

ADVERTISEMENT

戸部田誠『芸能界誕生』(画像提供:新潮社)

 しかし1949年、3人姉弟は再びアメリカへ渡る。彼らはアメリカ人の日常生活の手伝いをするような仕事をしながら生活費を稼ぎ、学校に通って勉学にも励んでいた。

 そんな中、ジャニーに転機が訪れる。1950年頃になると、日本から美空ひばりを筆頭に笠置シヅ子、古賀政男、服部良一らが続々とやってきたのだ。彼らの目的は表向き「日米親善のため」というものだったが、実際には「少しでも多くの外貨を獲得できたら」というGHQの配慮によるものだったという(※15)。

 ロスでは、諦道が作った高野山寺院のステージで公演が行われた。その際に彼らをアテンドする役割を担ったのがジャニーだった。これがジャニーにとってショービジネスとの最初の接点となった。多くの芸能人が予算ギリギリで渡米してくるという事情を知ったジャニーは、あるアイデアを思いつく。ロス在住の親戚のカメラマンに頼み、渡米してきた芸能人のポートレイトを撮影し、それを観客に売ったのだ。その売り上げはすべて芸能人本人に渡した。それで随分感謝されたという(※4)。

朝鮮戦争に出征したことも

 だが、2年後の1952年、さらなる転機が訪れる。米国籍を持つジャニーは朝鮮戦争に徴兵され1年2か月にわたり戦地に赴き、除隊後は日本に戻りアメリカ大使館で勤務することになった(※4)。米軍宿舎だった代々木の「ワシントンハイツ」に住み、そこにあった広大なグラウンドに近所の少年たちを集めて、一緒に野球で遊ぶようになった。

 ジャニーの野球との関わりも父・諦道に由来する。彼は1946年に創設された大阪のプロ野球チーム「ゴールドスター」の創設メンバーでマネージャーを務めていたのだ。ジャニーのもとに集まった少年たちは、仲間内でふざけて「オール・エラーズ」だとか「オール・ヘターズ」などというチーム名をつけていたが、父のコネで呼んだ中日ドラゴンズの森徹や国鉄スワローズの徳武定祐といった名選手のコーチを受けてメキメキと上達。ユニフォームを作る際、チーム名として少年たちが提案したのが、「ジャニーズ」だったのだ(※5)。

関連記事