ジャニーの活動は、やがて少年たちによる野球大会が開かれるほどまで拡大していった。その大会には当時、国民的ヒーローになっていたプロレスラーの力道山も応援に訪れた。日に日に代々木のグラウンドに集合する少年たちの数は急増していった。
力道山が応援に訪れたのは、彼とメリーが懇意にしていたからだ。この頃、メリーは四谷三丁目で「スポット」というカウンターバーを営んでおり、力道山はそこの常連だった。ジャニーが米軍から仕入れてくるウイスキーやバーボン、メリーのアメリカ料理が評判になり、力道山だけでなく、芸能関係者、財界人なども足繁く通い、メリーは人脈を広げていった。ちなみに夫となる東京新聞記者の藤島泰輔とメリーが出会ったのもこのバー。渡辺プロ新卒1期生の工藤英博も「スポット」時代のメリーを知るひとりだ。
渡辺プロから帰る途中にあったので、最初は誰かに誘われて行ったのか覚えてないんですけど、何回か行きましたね。そうしたら、「工藤さん、山形からおいしい漬物を昨日もらったんだけれども、これを美佐さんに渡してあげて」って包んでくれたりしたのはよく覚えてますね。(工藤英博)
ウエスト・サイド・ストーリー
「君たちに素晴らしいものを観せてあげよう」
1962年1月、ジャニーは、野球で集まった少年たちの中から光るものを感じた4人を連れて有楽町の映画館・丸の内ピカデリーにやってきた。ブロードウェイを沸かせたミュージカルを映画化した『ウエスト・サイド・ストーリー』を観せるためだ。ジャニーと4人はスクリーンに釘付けとなり心を躍らせた。
「こいつはゼッタイなんだ。ゼッタイにすごい!(※5)」
ジャニーは確信した。自分は、この横に座っている4人の少年たちを中心にしてミュージカルを作るのだと。その4人こそ同じ代々木中学に通う真家ひろみ、飯野おさみ、中谷良、そしてあおい輝彦。彼らがアイドルグループ「ジャニーズ」のメンバーとなるのだ。
この年の春、ジャニーは有名無名の少年タレントたちを集めて、ミュージカルの勉強グループを作った。もちろん4人も一緒だ。さらに、ジャニーは旧知の名和プロダクション・名和純子が「新芸能学院」をやっていると聞きつけ、彼らを預けることにした。名和プロは2階建ての木造住宅で、1階が30畳ほどの稽古場になっていた。
少年たちは学校が終わると池袋の稽古場へ毎日駆けつけ、ジャニーはアメリカのチョコレートなどのお菓子、缶詰、飲み物など、子供たちが喜びそうなものを愛車の白いクライスラーに積んで稽古場に姿を現したという(※6)。
ジャニーは後年、4人の姿を見たときのことをこう振り返っている。
「何か凄いことが可能になる気がしたんだ(※4)」
※1:ムッシュかまやつ『ムッシュ!』(文春文庫)
※2:『週刊文春』「ジャニーズ『アイドル帝国』を築いた男(後編)」(2011年1月13日号)
※3:『潮』「進駐軍への芸能慰安──原節子らに何が起こったのか」(1981年9月号)
※4:小菅宏『「ジャニー喜多川」の戦略と戦術』(講談社)
※5:『ミュージック・ライフ』「ジャニーズの若い涙」(1964年12月号)
※6:『現代ビジネス』「ジャニーズ事務所はなぜSMAPを潰したのか」(2016年10月7日)
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