2019年に逝去するも、いまだ存在感が色褪せないジャニー喜多川氏。日本の芸能史を塗り替えたと言っても過言ではない「ジャニーズ帝国の祖」は、どんな人生を歩んだのか?

 ライターの戸部田誠氏の新刊『芸能界誕生』より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/前編を読む)

知られざる「ジャニー喜多川」氏の人柄とは? ©共同通信社

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ジャニー喜多川登場

「将来はミュージカルをやりたい」

 ロカビリーブームが下火になっていくと、「いい歳していつまでもロカビリーじゃないだろう」というムードもあって、ロカビリアンたちは決まり文句のようにそんな話を楽屋でしていたという(※1)。ムッシュはそれを「一種の免罪符」で言い訳のように感じ白んじて聞いていた。

ムッシュかまやつ ©文藝春秋

 しかし、本気で若い日本人男性たちのミュージカルをやりたいと夢見ていた人物がいた。ジャニー喜多川である。

 ジャニーさんは、五反田の曲直瀬家でパーティーをしたときにビンゴゲームの賞品とかを用意してくれたり、いろいろ手伝ってくれていたんですよ。パーティーには、マナセプロの人たちだけじゃなくて渡辺プロの人たちもいたから、そこからジャニーさんは渡辺プロの人たちと知り合ったんだと思います。でも、ジャニーさんはすごくシャイでしたね。パーティーが行われているところで一緒になってしゃべるタイプではなくて、裏にダイニングキッチンがあって、そこにずっといた。だから私とは気が合って、キッチンでふたりで座って、ああだよね、こうだよねっていろんな話をしました。ステキな人でしたね。(曲直瀬道枝)

 ジャニー喜多川は1962年にジャニーズ事務所を立ち上げたが、そうした関係もあって、当初は渡辺プロの系列会社としてのスタートだった。

 ジャニー喜多川は、1931年にロサンゼルスで生まれた。父は真言宗の僧侶であった喜多川諦道。ロスの「リトルトーキョー」の一角にある米国高野山大師教会の三代目主監である。諦道は寺院にステージを作るなど、型破りな僧侶だったという(※2)。

『週刊文春』(2010年12月30日・2011年1月6日号)の取材によると、1896年に生まれた彼は8歳で出家し、1924年に渡米。のちに大阪から妻・栄子も渡米。1927年に姉のメリー(泰子)、その下に長男・真一、そして末っ子のジャニー(擴)が生まれた。

 3人姉弟は、それぞれ泰子、マー坊、ヒー坊と呼ばれていた。1933年、一家は帰国し大阪に居を構えた。しばらくして母が亡くなると、メリーが母親代わりのようになり、弟たちの面倒を見るようになった。戦時中は父の元を離れ、姉弟3人は和歌山で親戚筋にあたる大谷貴義の家に身を寄せた。児玉誉士夫と並び「戦後最大級のフィクサー」と称される人物だ。