「その年代を代表する刑事ドラマ」といえば何だろうか。’70年代が『太陽にほえろ!』と『G MEN'75』、’80年代が『西部警察』と『あぶない刑事(デカ)』、’90年代中期が『古畑任三郎』だとすれば、’90年代末期~2000年代初頭は、間違いなく『踊る大捜査線』となるだろう。
当時、世に浸透中だった携帯電話の着メロとして、この『踊る』のテーマ曲が町のあちこちで聞こえる……ということがよくあった。
テレビから映画になり、大ヒットするケースは実写・アニメを問わず多々あるが、普通それはテレビが大ヒットした故のこと。しかし、意外なことに『踊る大捜査線』テレビ第1シリーズ(’97年)は、決して大ヒットとは言い難い。
コケたわけではない(最終回の視聴率は23.1%)ものの、シリーズ化、まして映画になるような視聴率ではなかった。それが映画第2作の『踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』(’03年)で前人未到の興行成績173.5億円を達成。これは日本の実写映画の歴代興収第1位で、22年現在いまだこの記録は破られていない。
この歴史に残る特大ヒットの背景には、スタッフとキャストの『踊る』にかけた並々ならぬ“想い”があった。本稿ではその秘話をプレイバックしてみよう。
織田裕二が直面していた壁
三谷幸喜脚本のヒット・ドラマ『振り返れば奴がいる』(’93年)で初の本格的なヒールを演じて新境地を開拓した俳優・織田裕二は、しかし、次の一手に迷っていた。それは俳優なら誰もが経験する、“自己の今後の方向性”という壁だった。
柴門ふみ原作の大ヒットドラマ『東京ラブストーリー』(’91年)のカンチこと永尾完治役で一躍大ブレイク(「ねぇ、セックスしよ!」は流行語にもなった)した織田は、『振り返れば』の非情な天才外科医・司馬江太郎役で見事カンチのイメージを払拭することに成功。
三谷脚本を得た織田は、明らかに本格的に演技の楽しさに目覚めたように見えた。同時にそれは“芝居することの難しさ”を知ったことでもある。
俳優・役者として新たに覚醒した織田は、事ある毎に当時、懇意にしていたプロデューサーや監督に、“次はこういう役を演(や)りたい”、“こういう内容のドラマはどうだろうか?”と、熱を込めて語っていたという。それは、ただ与えられる役を脚本通りにこなすだけの一俳優ではなく、創ることの楽しさに目覚めた一クリエイターとしての姿だった。
そんな織田のことを知ってか知らずか、後にフジテレビの社長にまで上り詰める、亀山千広プロデューサーは、織田のさらなる新境地を開拓するだけでなく、作品自体もかつてないドラマを創出しようと日々アイディアを練っていた。