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「霊安室で握った妹の手の温かさが妙に気持ち悪くて…」養父と実の母から壮絶な虐待を受けて4歳の妹を失った男性が語る、今も忘れられない“感覚”とは

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「病院へ駆けつけて妹と再会した時、百合はもう息をしていませんでした。真っ白な霊安室で握った妹の手がまだ温かかったのを、今でも鮮明に覚えています。真冬の冷たい雰囲気の霊安室で、その温かさが妙に気持ち悪くて……。悲しいとかかわいそうといった感情は湧いてきませんでした。虚無というか、何も感じる余裕がなかったのかもしれません。隣で祖母が『助けてあげられなくてごめんね』と泣いているのも冷めた気持ちで見ていました。ただ『楽になれてよかったね』と心の中で語り掛けたのだけは覚えています」

 百合ちゃんが緊急搬送された翌日に義父は逮捕され、後に有罪判決を受けた。しかし、義父と同じく虐待をくりかえしていたはずの母親は罪に問われなかった。9歳だった亮太さんも警察などから家庭環境などについて質問を受けたが、まだ言葉もおぼつかない下の妹たちのことを考えると、唯一の保護者となった母親を糾弾することはできなかったと振り返る。

「事件のあとも、母親と僕と妹2人の4人で暮らしていました。百合のことがあったからか、義父がいなくなったからか、その頃は母親の暴力はだいぶ落ち着いていました。ただネグレクト気味で、一切家事をしなくなることはよくありました。僕は当時9歳でしたが、毎日小さい妹たちに必死でご飯を作っていました。空腹の辛さは分かっていましたからね」

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写真はイメージです ©iStock.com

「霊安室のことがフラッシュバックして、最後に握った手の温かさを思い出してしまう」

 義父が逮捕された後も引っ越しはしなかったものの、亮太さんは学区外の中学校に進学。友達とは離れ離れになったが、少しでも事件のことを知る人が少ない環境を選んだのだという。

「それでも、ニュースなどで事件のことを知っている同級生は何人かいて、『あの事件の家族なんでしょ?』と虐待のことも聞かれました。意外に思うかもしれませんが、自分が受けた暴力のことを話すのは大丈夫なんです。ただ、妹のことを話していると霊安室のことがフラッシュバックして、最後に握った百合の手の温かさを思い出してしまう。そうなると胃がむかついて吐き気がとまらず、とても話せるような状態ではなくなってしまうんです」

 事件の生々しい記憶を抱えたまま、亮太さんは虐待の加害者でもある母親と生活を続けていた。それは、亮太さんが16歳になるまで続けられた。

「この時はまだ妹たちを守らなければ、という思いで母親のもとにいました。もちろん、百合や僕を虐待していたことは許せなかったので、早く家を出たいという気持ちもありました。だからこそ、高校一年生の時に学校をやめなければならなくなった時は、これ幸いと家を飛び出してしまいました。妹たちも小学生になっていましたし、自分がいなくても大丈夫だろうと」

 とにかく遠くへ、そう思った亮太さんは沖縄に単身飛んだ。すぐに住み込みの仕事を見つけることができ、住む場所と仕事を手に入れた。しかし、そこも亮太さんにとって安息の地にはならなかった。

「勤めていたのがとにかくブラックな職場だったんです。一応月の休みは4日あったんですが、休みの日に職場に行くことを強要され、朝9時から翌日の2時まで働かされました。それでもらえるのはたったの16万円。こんな生活を半年近く続けたらさすがに体がもたなくなって、辞めることになりました。その後は新聞配達員の仕事をしたり、いろんな所を転々として働きましたね。とにかく事件を忘れるように必死に生きていました」