日本のプロレス界のシンボルであり、国会議員としても活躍した、元プロレスラーのアントニオ猪木さんが、令和4年10月1日、心不全のため亡くなった。享年79歳。
猪木さんは神奈川県横浜市出身。中学生の時に一家でブラジルに移住するが、そこで運命の出会いが。現地に興行で訪れていた、日本プロレス界の始祖、力道山から直接スカウトされて帰国。弱冠17歳でプロレス界入りを果たす。
そこで力道山より直々に厳しい修練を受け、ほぼ同時に入門したジャイアント馬場とタッグを組むように。そして1972年には自ら新団体“新日本プロレス”を発足。以降、後進の育成に注力しつつ日本のプロレス界を牽引して行く。
‘76年には当時ボクシング世界ヘビー級チャンピオンだったモハメド・アリと対戦。文字どおり“世紀の一戦”と呼ばれ、世界中から注目された。プロレスラー自体は’98年に引退したものの、常にプロレス界の第一線で活躍し、藤波辰爾や長州力、初代タイガーマスクこと佐山聡らそうそうたるプロレス・スターを育てて行く。
一方で、’89年には、スポーツ平和党党首として参院選に立候補し、初当選。2013年には当時の日本維新の会より参院選に立候補して見事2度目の当選を果たす。参議院議員として国交が底冷えする北朝鮮を何度も訪朝するなど、猪木さんならではの政治活動を展開した。
私生活では4度の結婚を果たし、’71年には女優の倍賞美津子さんと2度目の結婚。俳優の松田優作さんは大の猪木ファンで、テレビドラマ『探偵物語』(’79年)で倍賞さんと共演した際、撮影の合間に猪木さんのことをよく聞いていたという逸話が残っている。
‘20年には自身のSNSで難病“心アミロイドーシス”と診断された事実を公表。率先して闘病姿をSNSにアップし、逆に大衆を元気づけた。病に伏せってなお、口ぐせであり名言でもある「元気ですか~~!」を体現したのだ。そして、去る10月1日、その華麗且つ激動の生涯というリングを降りていった。
……というのが猪木さんの「一般的な」プロフィールだが、ここから少し、テレビ・ウォッチャーとしての視点から書かせてもらおう。プロレス・政財界ではなく“テレビ番組出演者としてのアントニオ猪木”という観点だ。
「馬場さんの後輩」がスターになったきっかけは…
’67年生まれの筆者が“アントニオ猪木”の名前を意識したのは梶原一騎先生原作のテレビアニメ『タイガーマスク』(’69年)が最初だった。ジャイアント馬場さんとタッグを組み、馬場さんの後輩という印象が強かった。その後、テレビのプロレス中継で、新日本プロレスのナンバーワンレスラーとして認識した。