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 読売は「読者と編集者」という小欄で、実名報道をした理由を、こんな風に明らかにしている。

 「今度の浅沼委員長刺殺という事件は、一般の傷害殺人事件とは比較にならないほど重大です。単に成人だからとか少年だからということではなく、日本の政治上大きな影響を及ぼすものです。(中略)反社会的行動をした人間の行為を大衆の福祉のために伝えることと、人権を守るということは別問題です。(中略)こんどの事件の場合、やむをえず姓名を紙面にだしました」

 また、後に新聞協会の前田雄二事務局次長は「政治的な事件でもあり、各紙の社会部長会で、少年保護よりも社会的利益が強く優先するケースにあたると判断した」としている。

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 山口は、その年の11月、東京少年鑑別所の単独室で自殺した。ベッドのシーツを裂いて、裸電球を覆う金網に巻きつけ、首をつった。各紙は山口の自殺も、実名、顔写真付きで一面で報じている。

 世間がとらえた山口は、先鋭的で、早熟で、反俗的な少年だった。殺害の動機は、テロリズム。政治的な山口の存在は大人と同様に扱われた。彼は少年法が想定するような「保護」されるべき「少年」像からはかけ離れている、と捉えられていたのである。

 だが、その一方で、この事件は、あまりにも政治的な側面ばかりから報じられており、少年としての山口の姿が見えづらい、ともいえた。

 山口の叔父は、作家の村上信彦だった。彼は雑誌「婦人公論」に寄稿し、山口と父との関係について、こう書いている。

 「私は永年、氏(二矢の父)とつきあってきたが、子供と打ちとけて語り合う姿を見たことがない。反対に、命令と一喝で片づける場面はたびたびあった。一喝主義が彼の家庭教育であったと思う。どこの子供にも反抗期というものがあるが、兄(寄稿では実名)にしても弟の二矢にしても反抗期らしいもののみられないのが特徴である。そうした子供らしい自由な芽は刈り取られていた。口数の少い、自己表現のないこの子供たちの抑圧心理が、どのようにゆがめられて外部に奔出する危険があるかは想像できる」

 村上は、事件の背景に二矢と父との複雑な親子関係を見ていた。その指摘は、今の典型的な少年事件の見立てと重なる。

 だが、こうした見方が世間に広がることはなかった。

登山ナイフで二人を刺殺…動機となったのは

 テロ事件の余波は、政治を離れて言論の分野にも広がる。山口の事件から4カ月後。今度は中央公論社の社長宅が、17歳の少年に襲撃される。

 社長の嶋中鵬二は不在だったが、家政婦の女性(50)が登山ナイフで刺殺され、嶋中の妻も重傷を負った。