1949年に少年法が施行され、20歳未満が「少年」と定められてからも、新聞各社はしばしば少年犯罪の犯人を実名で報道していた。1958年12月、ついに法務省から抗議を受けた日本新聞協会は、少年法に則って少年犯罪を匿名で報道する方針を示す。
ところが1960年、その方針があるにも関わらず、実名で報道された「少年」がいた。白昼堂々と野党第一党の党首を刺殺した、山口二矢(当時17歳)である。
どうして山口二矢だけが例外だったのか――。毎日新聞記者の川名壮志さんが、少年事件の歴史から社会を読み解いた一冊『記者がひもとく「少年」事件史 少年がナイフを握るたび大人たちは理由を探す』(岩波書店)より抜粋して、当時の新聞紙面や関係者の証言を振り返る。(全2回のうち1回目/後編を読む)
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たった一人で政治を翻弄した少年テロリスト
1960年10月12日。事件は、東京・日比谷公会堂で発生した。この日は、自民、民社、社会の3党首による立会演説会が開かれていた。午後3時すぎ、民社党の西尾末広の演説が終わり、社会党の浅沼稲次郎が登壇する(その後には、池田勇人首相の演説が控えていた)。
演説を会場で聞いていた山口は、とつぜん立ち上がって舞台に駆けあがると、その勢いのまま短刀で浅沼を刺殺した。そしてその場で現行犯逮捕された。
刺殺の瞬間は、NHKも映像でとらえていた。この演説会を録画していたのである。
その映像を見ると、会場は聴衆であふれかえっている。ヤジが激しく、司会を務めたNHKの小林利光アナウンサーが、「静粛に」と繰り返している様子も映しだされている。浅沼がダミ声で演説をはじめてしばらくすると、学生服にコートを羽織った山口が、猛烈なスピードで浅沼に駆け寄り、その胸とわき腹を刺している。それは、刃物で刺すというより、全精力をぶつけた体当たりだった。激しい衝撃で、山口のかけていた丸眼鏡が吹き飛んでいる。
「自分は力も体力もないから、刺そうとすれば体をかわされて失敗する。自分の腹に刀の柄の頭をつけて、刀を水平に構えて走った勢いで体当たりすれば、必ず相手の腹を刺すことができると思った」
後に山口は、警視庁公安二課の調べにそう供述している。
17歳による政治テロ。山口は事件の直前まで、赤尾敏が率いる大日本愛国党に入党していた。だが、彼はあくまでも単独の犯行だと供述した。
「浅沼委員長を倒すことは日本のため、国民のためになることであると堅く信じて殺害した。自分一人の信念で決行したこと」。調べに取り乱した様子はなかったという。