しかし「忘れられた人々」たちの多くがこの批判に納得することはないだろう。なぜならば「忘れられた人々」を動機付けているのは、文字通り自分たちが「忘れられた」存在であることから解放されたいという願いだからだ。
2016年、アメリカの「忘れられた人々」はトランプを選択することで自ら累進性の低い税金の制度を選択し、オバマケアを撤廃した。彼らは国家による再分配を自ら手放すことで、承認を獲得することを選んだ人々なのだ。彼らが求めているのは、富よりもむしろ承認の再分配なのだ。
いま世界は2つの新しい階層に分断されている
シリコンバレーのアントレプレナーたちは肩をすくめて語る。ラストベルトの自動車工たちは何も分かっていない、と。「壁」をつくりグローバリゼーションに背を向け、移民を追い出し、保護貿易で製造業を守ることで問題は決して解決しない。あなたたちが少年少女時代を過ごした20世紀は遠い過去のものとなり、人間が世界に触れるときに用いる技術は見違えるほど進歩した。
もはや、あなたたちが望む「あの頃の世界」は返ってこない。むしろ、グローバル資本主義に適応した情報産業の成長によってパイを増やすことが、そしてその増えたパイを適切に再分配することが最適解なのだ。十分な成長が実現すれば、ベーシックインカムで君たちの生活を保証することも夢ではない、と。
しかし何も分かっていないのは、したり顔で語る彼らのほうだ。こうした「賢い」言葉は、事実上「忘れられた人々」に忘れられたままでいるべきだと告げているに等しい。ただ与えられるだけの存在に、施しを待つだけの存在になるべきだと告げているに等しい。
それは、もはやお前たちは世界に素手で触れることのできないノンプレイヤーキャラクター(NPC)であるとを述べていることと変わらないのだ。グローバル資本主義というゲームをプレイし、そしてゲームそのものを内側から改変していくことが可能なメタプレイヤーキャラクターたちと、もはやこのゲームを主体的にプレイすることすら許されないノンプレイヤーキャラクターたちに世界は二分されているのだ。
両者を隔てているのは、世界に素手で触れることができると信じられているかどうか、だ。イギリスのジャーナリストであるデイヴィッド・グッドハートは、ブレグジットを論じたその著書の中でこう述べている。いま世界は2つの新しい階層に分断されている、と。それはAnywhere、つまり「どこでも」生きていくことができる人々と、Somewhere、つまり「どこかで」なければ生きていけない人々だ(※7)。
前者は主に情報産業にかかわるクリエイティブ・クラス──たとえばシリコンバレーやロンドンのアントレプレナー──に代表される人々だ。グローバルな市場のプレイヤーである彼らは、世界中のどこへ行っても生きていくことができる。そして、そのため世界市民的な意識を持っている。
21世紀の今日において、人間のかかわることのできるもっとも大きな回路はグローバルな市場であって、ローカルな国家ではない。革命(政治的なアプローチ)で国家の支配体制を変えたとしても、一定の地域の法を時間をかけて変化させることしかできないが、イノベーション(経済的なアプローチ)によって市場に新しい商品やサービスを投入すれば、世界中の人間のライフスタイルを、それも一瞬で変えることができる。
これは少なくとも半分は幻想に過ぎない。だが半分は現実だ。そしてこの半分の現実と半分の幻想が入り混じったものが、21世紀初頭の世界をもっとも大きな力で動かしたことは間違いない。