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 それは未知であることのもたらす不安を忘却させる向精神薬であると同時に、古きよきアメリカ人であることを確認させるアイデンティティの証明書にもなっている。トランプは、危機に乗じてこの証明書を売りさばくことに逆転の可能性を見出していた。少なくともそれを「票固め」として必要としていたことは疑いようがないはずだ。

 トランプには感染対策での失政が批判されているからこそ、そもそもそれは問題ですらないのだという物語を、嘘を、それを望む人々をつなぎ止めるためにも語り続ける必要があったのだ。

ブレグジット/トランプの与えた衝撃とは?

 そして2020年のパンデミックによって発生し、やがてそれを下支えしていったインフォデミックの素地は、既に情報環境的に完成されていたものだった。その意味において、2016年は象徴的な1年だった。この2016年はイギリスのEUからの離脱を国民投票によって実現するブレグジット運動、アメリカにおけるドナルド・トランプの台頭という2つのポピュリズムが世界に衝撃を与えた年となった。

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 これらはともに、多文化主義とグローバリゼーションに異を唱える排外主義的な性格が全面化した運動だったからだ。ブレグジット/トランプの与えた衝撃とは、この現象が民主主義の牙城として認識されていた旧西側の先進国を代表する英米両国で起きたことにあった。

 これらの現象はいずれもそれぞれの国の社会のマジョリティ──たとえばアメリカにおける中低所得層の白人男性──の被害者意識とそこから生まれるアイデンティティの不安の産物だった。アファーマティブ・アクションへの批判などが典型例だが、本来社会の中核であるマジョリティの自分たちの権利がマイノリティへの過剰な配慮によって損なわれているという物語が、ここでは強い共感を得て、動員力を発揮していた。

 一般的にはこう考えられている。グローバル資本主義の発展と製造業から情報産業への世界経済の主役の交代は、経済的な成功と地理的な条件(どの場所に生まれたか)を相対的に切り離した。今日もっとも大きな富を生んでいるグローバルな情報産業において、どこに生まれたかは少なくともこれまでの世界に比べてさほど大きな足かせにはならない。

 2022年現在におけるGoogleの最高経営責任者(CEO)のサンダー・ピチャイはインドの出身だ。彼はインドから移民したアメリカ人の子供なのではなく、インドで生まれ育ったインド人だ。1994年の大虐殺から4半世紀あまり、「アフリカの奇跡」と呼ばれる経済発展を遂げたルワンダを支えるのが、ドローン、遠隔診療、フィンテックなどのITベンチャー企業を中心とした情報産業だ。少なくとも20世紀以前と比べて、21世紀の今日は、どの場所に生まれるかではなく、どう生きるかが経済的な成功を決定することは間違いない。

 そしてその結果として、グローバル資本主義下においては(比喩的な表現を用いれば)アメリカとベトナム、アメリカとルワンダとの格差が縮小するその一方で、シリコンバレーのアントレプレナーたちとラストベルトの自動車工たちとの間の格差が拡大する。

 戦後のパクス・アメリカーナの下、かつての第3世界からの搾取によって経済発展を実現した冷戦期の西側諸国に発生した中産階級たちは、いまグローバルな情報産業(ニューエコノミー)の台頭という世界経済の構造の変化の中で相対的に没落している。この「忘れられた人々」が、トランプの支持層だ(※6)。

 ベトナムやルワンダの若者たちは、それはあなたたちがかつての植民地支配の遺産を継承することで不当に獲得し、専有してきた既得権益を失っただけに過ぎない(したがって同情には値しない)と批判するかもしれない。実際にこの没落した旧先進国の中間層たちの生活水準は、現在においてもなお途上国の農村部に暮らす人々よりも遥かに高い。