北海道の枝留という架空の街を舞台に、夫とともにこの地に移り住んできた助産婦の祖母添島よね、枝留の薄荷会社に勤める長男眞二郎とその妻登代子、彼らの娘の歩と息子の始、眞二郎の女きょうだいたち。一族三代の歴史を描いた、長篇小説である。
起点と終点には始がいる。小説は、大学で教鞭を執る始が、大学を辞め、妻と別居して枝留の実家に帰ろうとするところから始まり、枝留に帰ってきた始が床屋にいる場面で終わっている。時間の経過としてはそれほどたっていない二つの日常のあいだに、添島家の三代と、枝留で彼らの周りにいた人々が過ごした百年以上の時の流れが、次々と視点を変え、行きつ戻りつしながら、豊かな自然に恵まれた道東の街の盛衰とともに語り継がれていく。
著者は、時の流れを一本の線で無理に結びあわせない。視点人物として登場したときの始は五十歳を過ぎているが、次に同じ役割で姉の歩が出てくるとき、彼女はまだ十五歳の高校生で、二歳のときの記憶を注意深くたぐり寄せている。深く海に沈められた記憶の中には、ぼんやりと祖母よねが存在している。よねの死後に生まれた始の記憶には、よねは存在していない。
一族の歴史には語られることと、語られないことがある。一族の始まりであるよねは、幼いころ父親の友だちのところに里子に出され、長じて実家に戻された経験がある。人格形成にも影響しそうなそうしたできごとの理由を、よねが両親や義両親に尋ねることはなく、眞二郎たちもその理由を知らないまま年月は過ぎていく。
淡彩の絵の具を徐々に重ねるように、一族の物語は描かれていく。家族の確執や秘密も、歩と同級生で枝留教会の牧師の息子である一惟との恋も、農場学校で一惟が知り合う毅の痛ましい人生も歩の病も、眞二郎が飼っている四代の北海道犬にまつわる思い出も、語られ方は激することなく淡々としていて、すべてにピントが合っている。とりたてて特別なところのない一族の営々と続くいとなみは、淡々としていながらも他の何者にも似ていない。彼らにしかない確かさがあり、忘れがたい印象を残す。
小説の始まりに、「添島始は消失点を背負っていた」という謎めいた一文が置かれている。消失点とは、本来は平行であるはずの建造物などの線が、遠近法を使って描くときに出てくる、線が交わる点のことである。始も気づいていない、その消失点を彼の背後に見ているのは誰なのか。小説の中で明らかにされることはないが、その一文を意識したときすでに、人から人へと記憶が伝えられてきた一族の歴史を読むための視点を手渡されていたのかもしれない。