『日本インテリジェンス史 旧日本軍から公安、内調、NSCまで』(小谷賢 著)中公新書

 怒髪天を衝く――あの日、後藤田正晴官房長官が見せた形相はまさしくそれだった。自衛隊が傍受した録音テープを断りもなく国連で公表した米国への憤りを隠そうとしなかった。

 米ソ冷戦が再び沸点に達しつつあった1983年の秋、サハリン沖で大韓航空機がレーダーから姿を消した。ソ連の迎撃機スホーイは、領空侵犯の航空機を「撃墜せよ」と命令を受けてミサイルを発射した。稚内の傍受部隊はソ連側の交信を録音していたのである。

 だが、決定的証拠は米軍にそのまま渡され、レーガン政権が安保理でソ連を追い詰める決め手となった。ソ連側は直ちに交信の周波数を変えてしまい、日本の傍受部隊は壊滅的な打撃をこうむってしまう。

ADVERTISEMENT

 戦後インテリジェンス史を画するこの事件は「冷戦期の攻防」として本書でも詳しく取り上げられている。

「なぜ日本では戦後、インテリジェンス・コミュニティが拡大せず、他国並みに発展しなかったのか」

 本書を執筆した狙いを著者はこう述べているが、冒頭の撃墜事件にはそれを読み解くカギが埋め込まれている。戦後日本のインテリジェンス組織は、戦勝国にして対ソ同盟の盟主、米国の情報機関にがっちりと組み込まれてきた。警備・公安警察を率いた後藤田は、ワシントンの下請けに甘んじてきた日本の情報機関の実情に無念の思いを募らせていた。ワシントンは日本が独立を果たしても、自前の情報機関を持つことを喜ばなかった。これでは欧米に肩を並べる対外情報機関など育つはずがない。

 中ロ両国はいま強大な核ミサイルと空母機動群を持ち、日本列島周辺に合同艦隊を遊弋(ゆうよく)させて攻勢を強めている。対する日本は、中ロのように“鋭い牙”を備えていないだけでなく、独自の情報要員を海外に配する対外情報機関も持たなかった。国家に忍び寄る災厄の足音を聴く“長い耳”すら持とうとせず、米国がかざす傘にひっそりと身を寄せてきた。太平洋同盟の盟主たる米国は、国家の舵取りに欠かせない対外情報機関を日本が持たないことを暗に望んできた。思慮深い本書の読み手ならそう気付くことだろう。

 だがさしもの日本も、厳しさを増す環境に直面して、省益優先の情報組織の在り方を見直し、内閣が各組織を統御する改革に乗り出したと著者は指摘する。

“インテリジェンス”とは国家が熾烈な競争を生き抜くための情報をいう。膨大で雑多な情報群から事態の本質を示すエッセンスを選り抜いて分析し、政治指導者に提供する。これこそがインテリジェンス機関の責務である。だが、貴重な情報を国家の舵取りに活かすのは政治のリーダーである。チャーチル卿のように磨き抜かれた情報センスを持つ政治家をいかにして育てるか。本書の行間からヒントを見つけ出し、情報大国への道標としてほしい。

こたにけん/1973年京都府生まれ。京都大学大学院博士課程修了。防衛省防衛研究所戦史研究センター主任研究官等を経て、2016年から日本大学危機管理学部教授。著書に『日本軍のインテリジェンス』『インテリジェンスの世界史』等がある。

 

てしまりゅういち/1949年生まれ。外交ジャーナリスト・作家。著書に『鳴かずのカッコウ』『武漢コンフィデンシャル』等がある。