初めての女装は小学生のとき
マツコが初めて女装したのは、小学4年のときだった。低学年のころから太っており、このままでは《「ただ太ってるだけの人間」になってしまう、何でもいいから自分の存在価値を周りに示さなきゃと思って、意を決して》学芸会で女装して歌った(『クィア・ジャパン』Vol.3、勁草書房、2000年)。これがウケ、規格外だと思っていた自分でも、ちょっと発想を転換すれば、違うヒエラルキーを構築してその頂点に立てると気づいたという。それからというもの笑いをとることだけを考えてすごしたが、そのうちに心底疲れ果て、反動で一時、不登校気味になってしまったらしい。
それでも中高生になってからも、掃除の時間に階段の踊り場でセクシーな振りをつけて歌ったりしては評判をとった。すでに本人のなかでは開き直りともあきらめともつかない感情があり、自分が周囲から何を求められているか手に取るようにわかってしまっていたという。《だからそれを黙々とこなしてました。うっとうしがられない程度に》とのちに語っている(前掲誌)。ただ、女装を始めたのはあくまで体型によるところが大きく、自分がゲイだと気づいたのはもっとあと、20歳ぐらいになってからだという。
本格的に女装にのめりこんだのは高校3年ぐらいからで、コンビニのトイレで着替えてメイクしては、伝説のクラブ・芝浦GOLDに通った。高校卒業後は美容の専門学校に1年通ったあと、転職を繰り返す。90年代初めのこのころ、アカデミックにゲイを語るというムーブメントが起こり、ライフスタイルとしてのゲイを主張する『Badi』のような雑誌も創刊されていた。20代半ばになっていたマツコも「この先に私の生きる道が見つかるんじゃないか」と思い、吸い寄せられるように同誌の編集部員となる。このころから過剰な女装で自己をアピールするドラァグ・クイーンの活動も始め、率先的にメディアに顔を出していた。
30歳を前に退職、引きこもり生活を送ることに
作家の中村うさぎは、パートナーが定期購読していた『Badi』でマツコを知り、自分の著書で対談相手に指名する。中村は、マツコはもっと大きなメディアに出ていくほうが向いていると思い、初の著書『アタシがマツコ・デラックス!』の出版にも協力した。そのころ、マツコは仕事での人間関係がうまくいかなくなり、精神的に追い込まれ、編集部を辞めて千葉の実家に戻っていた。
実家では約2年、引きこもり状態にあり、その間、自らの境遇に焦るあまり、高校の同級生に片っ端から電話をかけ、現在の仕事や境遇を聞き出してリストをつくり、ますます敗北感にさいなまれる……なんてこともあったという。そのうちに実家が引っ越すことになり、《母親に「悪いけど、次の家にアンタの部屋はないからね」って、有無を言わさず家を追い出されたんです》(『週刊文春』2010年9月9日号)。