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知人は“バケツ一杯の本物の精液”を……「愚かな女の人たちの側にいたい」芥川賞候補作家・鈴木涼美(39)が「規範の不在」を描く新作小説『グレイスレス』

2022/11/12
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「AV業界が昼間にも話題になるようなことはここ10年で随分ありました。出演強要や過去の暴露、ネットフリックスのドラマから成人年齢引き下げに端を発したAV新法の話まで。その議論の中で、誇りを持って働いていますという現場の声にも、女性搾取の現場を存続させるべきではないという規制推進派の声にも、私はなんとなく全力で乗っかれない気分でいました。でもどっちの論理もわからなくはないけど、『擁護派か規制派か?』と言われても困るというか」

「私はAVについて『必要な業界です』『誇りを持っています』とかっていう言葉は持ち合わせてなくて、一方で完全に否定できる言葉ももちろん持ったことはなくて。なんか、否定したいのか肯定したいのか、自分でもよくわからないところがあるんですよ。どっちも100%じゃない感じ」

©丸谷嘉長

 そんな自分は不自由なのだと、鈴木は述懐した。「たとえば私は、ウィキペディアで1行目に元AV女優だという記述が入っています。初めて会う人と会話をする前からその肩書きを背負っているのは、やっぱり不自由だと思う。でも、それはあらゆる人が色んなレベルで悩んでいるとも思うんです。

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 私だけがかわいそうな訳ではない。一点の曇りもなく自分の過去を開示できる人がいてももちろんいいのだけど、多くの人は黒歴史や恥の若さというものを経験しています。1回パパ活しちゃったとか、キャバクラの体験入店荒らしをしてたとか。女子高生時代に、村上龍の『ラブ&ポップ』みたいに、おじさんにマスカット噛んでくれと言われたとか(笑)」

「それはその彼女本人にとっては大事です。AVに出てる人からすれば、マスカット噛んだぐらい黙ってれば誰も知らないからいいじゃないって思うかもしれないけど、でも彼女はもしかしたらそれをずっと彼氏とか旦那さんに言えなくてひっかかってるかもしれない。かつての自分も含めた、ある意味愚かとされるところにいる女の子たちに対して私は惹かれるし、愛しさや美しさを感じているんですけどね」

©丸谷嘉長

「すごく好きだけど、親には絶対紹介できない」と言われたら……

「私は、自分については幸福を諦めているようなところがずっとありました。顔や名前を変えて生きるほどは腹が据わっていないけど、多くの情報は少しネットを叩けば出てきます。ずっと隠して嘘をついているよりは楽になったと感じることもあるし、時には割り切ってしまえるけど、また別の時にはとても苦しい。

 そういう時には人は被害者意識旺盛になったり、悲劇のヒロインになってしまうのかもしれません。好きな人に対して後ろめたい過去があると、あれさえなければもっと愛してもらえたのにって思ったり、あれのせいでダメになるかもと恐怖したりするものです。でもこんな時代に、死ぬほどには絶望していない私はやっぱり幸福な方かも、となるべく思うようにはしています」