文春オンライン

知人は“バケツ一杯の本物の精液”を……「愚かな女の人たちの側にいたい」芥川賞候補作家・鈴木涼美(39)が「規範の不在」を描く新作小説『グレイスレス』

2022/11/12
note

 登場人物としての「母」は、家に以前住んでいた者が残していった十字架を壁から外す。その十字架の跡は、実際に鈴木たち家族が住んでいた家にあったものだという。「十字架が元々貼り付けられていた空洞が、ある意味規範の不在みたいなものを表してるなと思って、それについて書きたいと思ったのが最初です」

 黒川紀章の思想を調べているうちに、鈴木は自分にとって重要ないくつかのアイデアに出会ったのだという。「共生仏教など、私自身にあまり馴染みのなかった思想に触れるのは新鮮なものでした。今回描いたポルノ業界にも、彼の言う和建築のインサイドとアウトサイドの間の曖昧さに通じるものがある気がします。壁も土で、紙の障子で間仕切りされて、縁側があって、中とも外ともいえないところがいっぱいあるみたいな」

黒川紀章の設計思想を知ると見えてきたAV業界の新たな一面

「AV業界は、倫理の際(きわ)、和建築で言えば縁側のようなところだと思うと、その考えは私にとってとても納得のいくもののような気がしてきたんです。そう思いつくと、建築についての静かな話とポルノの撮影現場の騒々しい話は私の中で一筋の繋がりが見えてきて、そこからは筆はとてもよく進みました。

ADVERTISEMENT

 私もまた、主人公のように二つの一見相容れない世界を夜毎行ったり来たりしていた時期があるわけで、その中にいた時の感覚が蘇るような気分にもなりました」

©丸谷嘉長

 AVは縁側なのだ、という発見から導かれたその先とは。「曖昧さを許容することでしか生きていられない、ということかな。先日、とある対談で日本人の倫理が失われたと問題提起をされたことがありましたが、そもそも宗教的規範意識の極めて低いところに生まれ落ちた私たちには寄るべとなるような信仰がありませんよね。信仰の不在の中で、何をして何をしないかという感覚は自ずと曖昧なものになるような気がします。詳しくはぜひ小説を読んでいただきたいです」

「私は浅はかで、若くて、愚かで、すごく実践的にしか学べなかった。『なんとなく嫌』という曖昧な領域みたいなものをもっと信じても良かったような気はします。ただ青臭いながらもこの曖昧さはなんだろうと格闘した若い頃を今から思い返せば、それはそれで愛しいです」

「元AV女優だという記述がwikiの1行目にあるのは不自由だと思う」

 白でも黒でもなく、なのにグレーの中でも居場所を見つけられずに迷い続けてきた自分自身を、鈴木は「だから私、ワイドショーとかに向いていない。どっちつかずだから面白くないんですよ」と笑う。

関連記事