同人活動への愛を語るマンガ家のよしながふみさん。現在まで長年にわたって「コミックマーケット(以下、コミケ)」にサークル参加を続けている。

 よしながさんがコミケで憧れたマンガ家の中にも、プロとして活躍している人もいれば就職を機に引退する人もいたという。日本のマンガカルチャーの中でも大きな存在感を放つ“同人”という世界の魅力とは。そしてSNSや通販サイトなどが充実した今も、夏は暑く冬は寒いビッグサイトに出展する理由とは――。

夏冬のコミックマーケットが行われる東京ビッグサイト ©iStock.com

――コミケに参加されていた人で、プロの作家になった方は大勢います。

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よしなが ただ、同人を描いていた人がみんなプロを目指していたというわけではなくて、どれだけカリスマ的な人気があったとしても、ご本人が辞めると言ったら終わってしまう世界です。とても好きなサークルさんがいたんですけど、あるとき、同人誌のあとがきに「就職が決まったのでこれが最後です」と書いてあって……。

――突然の別れが……。

よしなが 才能とやる気って全く比例していませんし、好きなキャラの好きなストーリーを描く二次創作の楽しさと、自分でキャラもストーリーも考える商業作品は、まったくの別物ですからね。「なんで編集者に指図されなきゃいけないんだ」という矜恃を持って活動されている方もいました。なので、同人誌で人気がある順にプロになったわけでもないし、同人誌での人気がプロでの売れ方と比例するわけでもないんです。

「二次創作でBLをやっている私は基本的にプロになれないんだろうな、と思っていました」

――よしながさんがプロになることを意識されたのはいつ頃だったのですか?

よしなが BL誌が世の中に出来てからですね。それまでは女の人がマンガを描いてプロになるには、少女マンガ誌に投稿するしか道がなかったんです。つまり10代の高校生が主役の「ボーイミーツガール」を16ページで描けないとプロにはなれないと思っていました。

――同人活動で描く内容を受容できる商業媒体がまだなかった、と。

よしなが だから、二次創作でBLをやっている私は基本的にプロになれないんだろうな、と思っていました。当時はまだ「BL」という言葉はありませんでしたし。高河ゆん先生やCLAMP先生の作品が掲載されていた『月刊ウィングス』のような雑誌もありましたけど、もともと同人界でも大人気のサークルでしたから、自分がおなじようにヘッドハンティングされる事はあり得ませんでした。

――1994年にデビューされていますが、現実的にプロの道を考えたのはいつ頃だったんでしょう?

よしなが 1993年に『MAGAZINE BE×BOY』(青磁ビブロス、現:リブレ)というBL雑誌が創刊されてヒットしていろいろな出版社からBL雑誌が出るようになり、「BL雑誌なら私にも描く場所があるんじゃないか」と思えるようになりました。