1961年(94分)/東宝/2750円(税込)

 かつての日本映画は、俳優ごとにイメージが固定されていて、それに沿った役柄でキャスティングされることが多かった。たとえば、小沢栄太郎なら「憎々しい権力者」、藤田進なら「剛直な軍人」、佐藤允なら「爽やかな豪傑」――といった具合に。

 その一方で、そうしたイメージを上手く覆したキャスティングをすることで、作品の重要なアクセントになる場合もある。東宝においては、団令子がそうだった。

 基本的には「社長」シリーズのように、「明朗で健康的な若者」というイメージなのだが、これがハードボイルド映画になると一変、毒の強い悪女へと変貌するのだ。『殺人狂時代』『悪の階段』など、通常のイメージとのギャップがミステリアスな魅力を生み、作品全体をスリリングに盛り上げていく。

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 今回取り上げる岡本喜八監督のハードボイルド映画『地獄の饗宴(うたげ)』も、そんな一本。

 売春の斡旋を生業とする修(三橋達也)が新橋駅で写真のネガを拾うところから物語は始まる。現像すると、そこには戦時中に修をいたぶった憎き上官・伊丹(田崎潤)が若い女性と写っていた。

 伊丹の経営する会社を訪ねた修は、伊丹が既に死んでいるのと同時に、写真に写っているのが伊丹の秘書の冴子だと気づく。修は、写真をネタに冴子を脅迫する。

 この冴子を演じるのが、団令子だった。当初は、修が優位に立っていると思わせておいて実は――という展開になっていくのだが、これが実にピッタリ。最初は哀れに見せ、次は色仕掛け、目的を果たすと冷淡な表情に。見事なまでの悪女への豹変ぶりで、これまたイメージと異なるニヒルさで魅了してくる三橋との、悪対悪の化かし合いが序盤の緊張感を洒脱に高める。

 実は生きていた伊丹を見つけた修は、脅迫に成功。この時の修を見つめる団令子の色気たっぷりの眼差しや、伊丹殺害を持ちかける際のアクの強い表情はいずれも絶品。まとい続ける黒ずくめの衣装に、モノクロの映像もあいまって、存在そのものが「黒い毒」として映し出されていた。

 岡本喜八らしい軽妙な演出もあって、両者の虚々実々の駆け引きはラブコメのような楽しさに満ちている。

 特に、伊丹の動きを封じるため、修が冴子に銃を渡した後の芝居が最高だ。冴子はその銃を修に向ける。「撃つとお思いになる?」と無表情で言ってくる冴子に、「知らないね。女の気持ちを読むなんてのは苦手なんだ」と受け流す修。やり取り自体は不穏なのに、まるでイチャついているように思えてくるのである。

 実に効果的な、配役の妙だ。