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連載大正事件史

裁判長の前には血痕の付着した凶器50~60本が…「日本最大の喧嘩」をめぐる裁判で起こったこと

裁判長の前には血痕の付着した凶器50~60本が…「日本最大の喧嘩」をめぐる裁判で起こったこと

鶴見騒擾事件#2

2022/11/06

 同年7月20日、予審が終結し、騒擾罪で公判に付す被告が決まった。これが新聞によって人数が違う。

報知は予審決定書を大々的に報じた

 21日発行22日付夕刊で東朝は237名、報知は239名と報じたが、いずれも、組ごとの内訳を足しても数が合わない。8月11日発行12日付報知夕刊は予審決定書を1面全部を使って報じたが、そこでは234名としている。

 あまりの被告の多さに同年11月24日発行25日付東朝夕刊は弁護人も約100名に上り、現在の横浜地裁法廷では間に合わず、約200メートル離れた生糸検査所跡に特別法廷を設置することになったと報じた。

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 初公判は事件から1年後の1926年12月20日。大正が終わる4日前だった。20日発行21日付東朝夕刊によれば、被告は237人。うち死亡などで4人減り、233人が罪を問われたと次のように報じた。

「裁判長の前には、血痕の付着した凶器50~60本が…」

「鶴見事件の大公判開かる」(東京朝日)

「名にし負う(名高い)当時世人の耳目を聳動(しょうどう=おそれおののく)させた事件のこととて、午前7時ころより傍聴人続々押しかけ、裁判所前大通りは時ならぬ雑踏を極め、双方の子分多数押しかけたので、万一のことあってはとて、加賀町署では制服・私服警官40名を裁判所内外に配置して厳重警戒していた」。横浜地裁始まって以来の大裁判だった。

 同じ日付の東日は――。

「午前10時、対の黒羽二重(最高級の和服)五つ紋付き袴に白足袋という、稼業に似合わぬ神妙さを見せた三谷秀組の金井、中田親分から着席。一列30人ずつ並んだが、二百三十人余という大勢なので、九間(約16メートル)に六間(約11メートル)の大法廷もさすがに傍聴人席へはみ出してすし詰めの形」

ずらりと並んだ被告たち(東京日日)

 公判は一部分離されたようで、翌22日発行23日付東朝夕刊はその模様を「鶴見騒擾の公判 物すごい法廷」の見出しで、「裁判長の前には、血痕の付着した日本刀、やり、竹やり、木刀、モーゼルピストルなど、当時のものすごい光景を語る凶器50~60本が並べられており……」と記した。

乱闘の跡と押収された大量の武器(東京日日)

 判決は年号が改まった翌1927(昭和2)年5月30日に言い渡された。同日発行31日付夕刊各紙の扱いは発生当時に比べて驚くほど小さい。

 中では東日が「首謀者は懲役三、四年 その他は輕(軽)く、九十八人は猶豫(予)」の3段見出し。主な被告は「赤組」三谷秀組の中田峯四郎と「白組」松尾組の松尾嘉右衛門、青山組の青山美代吉の計3人が懲役4年、松尾組の組員2人が同3年で、「白組」大阪組の宇和島清蔵は同1年。実刑59人に対し98人が執行猶予付きで罰金は52人。「赤組」の三谷秀こと金井秀次郎ら3人が無罪だった。理由は分からないが、判決を受けた被告は212人に減っている。

一審判決は最高懲役4年だった(東京日日)

 判決理由を東日は「首謀者を厳重にし、そのほかは大英断をもって軽くした。村田銃、猟銃、ピストル、大砲を持っていた者も同様厳重に処分した」と書いた。

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