現在の横浜市鶴見区で起きた1925年の鶴見騒擾事件。中田峯四郎、松尾嘉右衛門ら工事請負業者たちの対立が激化した結果、約1400人が「赤組」「白組」に分かれてピストルや日本刀などを振るい、入り乱れての市街戦を展開して、100人以上の死傷者を出した。

 約450人が検挙され、裁判も空前の規模に。大正末期を彩った日本最大級の「大喧嘩」はどのようにして起き、そして“決着” したのか――。

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あまりの検挙者数…「横浜市内の警察署はいつも満員」

 あまりの検挙者の多さに12月23日付萬朝報朝刊には、「被検挙者の身柄を預かった横浜市内8警察署はいつも満員」という記事が。

「大喧嘩」に検挙者も大量にでた(萬朝報)

 事件処理のため、東京区裁の検事10人が横浜地裁検事局に応援派遣されたこともニュースになった。23日、松尾嘉右衛門が収監された。「自首した」と書いた新聞と「隠れ家を包囲され逮捕された」とした新聞があった。

 26日付東朝朝刊には、金井秀次郎が、「町民を騒がせた」として見舞い金1000円(現在の約160万円)を代理人を通して鶴見町に寄付したという記事が掲載された。金井は召喚されたものの、事件との関係が薄いとして勾留を免れ、中田峯四郎と青山美代吉は26日、収監され、事件の「主役」がそろった。

 調停がまとまって「手打ち式」が行われたのは1925年も押し詰まった12月30日。東朝は31日付朝刊で写真入りでセレモニーを詳しく書いている。

古式にのっとった手打ち式が行われた(東京朝日)

 敵味方の刃を三寶(宝)にのせて ずらりと並んだ紋付姿の大親分百數(数)十名

 鶴見事件の手打ち式は、いよいよ暮れも迫った30日の吉日を選び、双方の代理人と調停者側・国粋会(関東本部)の幹部その他、関東関西の親分、顔役百余名列席のうえ午前10時から、日本橋矢の倉、福井楼の楼上で、その道の古式にのっとり、すこぶる大がかりに行った。

 予審中の中田、青山、松尾は代理人が出席。調停者側では関東本部総長の木田伊之助・退役陸軍少将、中野喜三郎・東京土木建築業組合長らが紋付、羽織はかまで集まった。土持保・太田通共著「建設業物語」(1957年)は「全く徳川時代から任侠世界に用いられた方式によって行われ」「この事件を最後として業界が二手に分かれて争う事件はなくなった」としている。

あまりの被告人の数に弁護人は約100人にのぼり…

 1926年2月21日付読売朝刊「法曹界たより」に事件の収監者数が載っている。「白組である青山、松尾、宇和島組の350名と赤組の三谷秀組の約百名の収容者中、略式罰金、無罪放免者は230名ばかり。現在は約240名が収容されている」。

 当初は約450人が検挙、収監されたことになる。記事にある通り、大阪組はこのころまでに80人近くが罰金の略式処分を受けていた。1月29日発行30日付東朝夕刊は「関西側の罰金総額は5350円(現在の約850万円)になる」と書いている。