運動への参加と退学

 現在残されている警視総監名の1933年12月の文書によれば、靖子は1931年秋ごろから学内でそのような運動にかかわり始めたという。靖子の進学以降の日本女子大での運動の概説を「思想調査資料」に見よう。(全2回の2回目。前編を読む)

▽昭和5年度 6月発覚。社会科学研究会を開催し、左翼出版物を購読し、党資金を提供した。関係者6名。11月、学生改革紛擾事件の裏面にあって左翼的策動をなす。関係者2名。

▽昭和6年度 昭和5年末、学内左翼の再組織を行い、共産青年同盟細胞を組織し、その補助組織として目白読書会、反帝同盟班、学生全協支持団などを組織した。そして学内問題を取り上げてアジ・プロし、左翼出版物を配布し、資金募集を行い、機関紙「目白新聞」を発行、配布した。また、読書会においては、左翼著書をテキストとして研究会を開催した。昭和7年2月発覚。関係者21名。

 靖子がこれらにどうかかわっていたのかは分からない。

「学生運動は昭和5、6(1930~31)年ごろが最盛期で、多数の学生が検挙された。わが校も例外でなく、英文科の学生を中心に組織が作られ、読書会や宣伝文書の持ち込みなどが行われていた」(「日本女子大学英文学科七十年史」)。

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 1932年1月23日には、講堂で文芸会の英語劇を上演中、「暗くなった会場に反帝ビラがまかれるということがあり、その後何人かの学生が警察に連行された」(同書)という。

 靖子がこの事件に関与していたのかどうかも不明だが、直後の3月、退学している。警視総監名の文書は「学内運動に参加活動中、発覚して」「中途退学したるが」と書いているが、「死をえらんだ公爵家の娘」は疑問を呈し、おそらく「花嫁修業のために退学したのだろう」と推測している。

靖子を中心とした岩倉家の系図(「昭和新修華族家系集成上巻より」)

 同書によれば、靖子はいとこの上村春子の影響を受けて共産党に接近。女子学習院時代の友人の紹介で八條隆孟に会い、学習院・女子学習院をめぐる活動に加わっていった。報知の記事にある社交クラブ「五月会」を春子と主宰。春子が横田雄俊と結婚して東京を離れたあとは、靖子が中心になって運営を続けた。