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靖子が共産主義にのめり込んだわけ

 では、靖子はどのようにしてそうした思想を持つようになったのだろう。彼女が考えや思いを漏らしたものはほとんど残っていない。「死をえらんだ公爵家の娘」によれば、検挙後の取り調べ中に書いた手記が特高報告文書の中にあるが、特高に強制されたもので、どこまで信じていいか分からないという。

 靖子が自殺した翌年の「サンデー毎日」1934年1月7日号には角力牛一という署名入りで「純情な、あまりに純情な 岩倉公令妹の死 聴け、華族社会へ、この警鐘」という記事が載っており、兄具榮が靖子について語っている。

「靖子はまるで世間を知らず、人夫などの汗水たらして労働している姿を見て帰っては、かわいそうだと涙ぐみ、同族や富豪の贅沢ぶりを見ては、どうしてこうも世の中には等差(差別)がひどいのだろうと思いに沈むし……。そうした単純な疑惑からつい赤に染まっただけに、どうしても“心”を変えない」

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 当時、警視庁特高課長で「特高の神様」といわれた毛利基と池田克の共著「防犯科学全集第6巻思想犯篇」(1936年)には、一連の共産党事件で起訴された者のデータと分析が載っている。

 全体のうち21~30歳は1928年度で472人中385人で82%。1929年度が1511人中1256人で83%。そして1934年度は496人中424人で86%だった。「年齢階梯別調査の結果は青年者が圧倒的多数を占め、ことに前期青年(21~25歳)の比率が優位を占むること、並びに壮・高年者及び少年者が極めて少数なることを一目瞭然たらしめる」とし、その理由を推察している。

青年者についていえば、その多数を占むる主要原因は、共産党の指導精神が理論的であり、戦闘的であり、非伝統的にして、よく青年性に浸透するの性質を有する結果、生活環境による行動上の制約を受くること少なき青年者をして、その運動に傾動しやすからしむるによるものと観察される。その行動の非合法性も原因となる。今日の若い人々を共産主義者たらしむる社会的条件もまたもとより無視することができない。「自分が大学の学生であった大正6年ごろと今日(昭和4年=1929年)とを比較すると、人を共産主義者たらしめる社会的条件が根本的に差異がある。今日、社会的矛盾の深くなったこと、労働者及び農民が相応に階級闘争の経験を積んだこと、大衆団体が存在していること、共産主義とそれ以外の思想系統がはっきりしていることなどなど。今日の若い人をして共産主義に近づきやすからしめると考える」と党首脳者の一人が手記しているのであるが、これらの社会的条件のうえに、周囲より受くる制約を振り切って身を投じようとする青年の情勢があるのであるから、共産党事件において、青年者が常に多数を占むることはやむを得ないことである。