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8ヵ月以上に及んだ獄中生活

「死をえらんだ公爵家の娘」などによれば、起訴された靖子が保釈されたのは1933年12月11日。獄中生活は8カ月以上に及んだ。その間、特高や予審判事はさまざまな手を使って転向を迫った。

 靖子は当初は全く応じなかったため起訴されたが、「死をえらんだ公爵家の娘」によれば、そのうち、面会に来た母櫻子に「過去の思想は完全に捨てました」と語ったという。しかし、転向の“証”として書いた手記はなかなか内容が予審判事に信用されず、何回目かでようやくOKがでたようだ。母や兄たちは温かく迎えてくれた。ところが――。

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異様なうめき声の末に…

「岩倉公の令妹 靖子嬢自殺す 轉(転)向保釋(釈)中公爵邸で」(東朝)、「“血のお詫び” 名門を赤に染めた 悔恨から剃刀自殺」(東日)、「赤の魔手に囚は(わ)れ 哀れ散る名門の花」(国民)。12月23日付夕刊各紙は一斉に大きく報じた。最も前置きが短い時事新報(1936年廃刊)の記事はこうだった。

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学習院を中心とする赤化事件に連座し検挙された公爵・岩倉具榮氏令妹、靖子さん(22)は、その後転向を誓って保釈となり出所。渋谷区鉢山町10の公爵邸にあってひたすら裁きの日を待っていた。ところが、22日の予審終結前日の21日午前6時10分ごろ、突然階下8畳の靖子さんの室から異様なうめき声が漏れるので、次室で食事中の母堂櫻子さんが入ってみると、靖子さんは寝床の中で鋭利な西洋剃刀を左手に持ち、右頸部の動脈を掻き切り、鮮血に染まって苦悶しているので、驚いた母堂は家令を呼ぶとともに直ちに渋谷区猿楽町43、主治医岡田仁吉氏を招き、さらに知己の赤十字病院の吉本清太郎博士に急報。応急手当を施したが、そのかいなく、母堂の手に抱かれながら、間もなく絶命した。渋谷署からは司法主任、警察医ら同家に急行。これを検視した。この朝、死の清算に急ぐ靖子さんはいったん寝床から起き出て着換えし、静かに朝の装いをすませてのち自室に入り、机に向かい、便箋1枚に鉛筆で字画も崩さず遺書をしたため、これを日頃愛用していた牡丹の花模様のある桐の小箱に四つに折って納め、右枕元に置いて、仰臥したまま自決したのだった。ちょうど妹さんたちが学習院に登校する直前の食事の折で、冬の日差しが清らかに庭の梢から「最後の部屋」の廊下に差し込んでいたときだった。

 その後に遺書の全文が載っている。

生きてゐ(い)ることは、凡(すべ)て悪結果を結びます。これ程悪いことはないと知りながら、この態度をとることを御許し下さいませ。皆様に対する感謝とお詫とは云ひ盡(言い尽く)せません。愛に満ちたいと願つ(っ)てもこの身が自由になりません。唯(ただ)心の思ひ(い)を皆様に捧げることをおくみとり下さいませ。全てを神さまに御まかせして、私の魂だけは、御心によつて善いや(よ)うになし給ふ(う)と信じます。説明も出来ぬこの心持を善い方に解釈して下さいませ。