ヤクザ映画の「出入り」(喧嘩=けんか)は規模も迫力もすさまじいが、それを地で行くように、約1400人が「赤組」「白組」に分かれてピストルや日本刀などを振るい、入り乱れての市街戦を展開。100人以上の死傷者を出した事件が100年近く前にあった。
“後始末”も約450人が検挙され、うち二百数十人が公判に付されるマンモス裁判に。直接の原因は火力発電所建設工事をめぐる土木請負業者同士の対立抗争だったが、背景には、当時まだ土木建築業界に色濃く残っていた博徒・侠客との深い因縁と、「電力戦争」と呼ばれた電力会社同士の激しい競争があった。同時に、事件はそうしたことが“常識”だった時代の終わりを象徴する出来事でもあった。
大正末期を彩った「大喧嘩」はどのようにして起き、かたがつけられたのか。今回も文中、現在では使われない「差別語」「不快用語」が登場。新聞記事などは、見出しのみ原文のまま、本文は適宜、現代文に直して整理。敬称は省略する。
「双方200~300人ずつの子分が凶器を携えて…」
事件に向かう動きが新聞で報じられたのは、1925(大正14)年も押し詰まった12月19日発行20日付東京朝日(東朝)夕刊1面2段の記事が最初だったようだ。
兇(凶)器を携へ(え)て 數(数)百人が對(対)陣 大親分との不和で 身内の仲裁不調から
【横浜電話】(神奈川県橘樹郡)鶴見町(現横浜市鶴見区)潮田、土工親分、青山己代吉は、川崎市南町(現川崎市川崎区)に居住する関東きっての顔役、三谷秀の身内であるが、さる9月、(同郡)田島町(現川崎市川崎区)の埋立地に新築する東京電力工事を清水組から下請けしたことから、親分三谷秀との間に不和を生じた。青山の兄弟分、潮田2896、松尾嘉右衛門が仲裁に入ったが、三谷秀が拒絶したので、松尾は青山に加担して三谷秀に当たることになった。18日夜、双方200~300人ずつの子分がこん棒その他の凶器を携えて田島町・運河橋その他十数カ所にそれぞれたむろして、互いに相手方の襲撃に備えるなど、ものすごい光景を現出した。鶴見署は非番巡査を召集して厳重な警戒をし、同夜はことなきを得たが、町民は不安に駆られている。
青山「己代吉」は「美代吉」の誤りで、「三谷秀」は本名「金井秀次郎」。「東京電力」は現在の東京電力(東電)とは別の会社で「東力(とうりき)」と呼ばれた。東朝の記事は「船十数隻で 斬込み の手はず 双方殺気立つ」の中見出しを挟んで続報になる。
【横浜電話】別項、川崎の顔役・三谷秀対鶴見潮田の土工親分・青山、松尾組の大げんかはその後、各地から双方へ続々加勢が加わり、両者ともますます殺気立って形勢は刻々不穏に陥った。三谷秀側は大勢の子分がピストル、日本刀などを用意し、六郷川から十数隻の船を出して海路潮田に乗り込みをかけようとしている旨、川崎署で聞き知り、目下極力鎮撫に努めている。
この報に接して県警察部から島川刑事課長、鹿取警部らが同地に急行。川崎、鶴見両署員を督励して警戒に努めている。なお、19日朝から30名の非番巡査が応援として鶴見に向かった。
ますます風雲急を告げ、一触即発の感じが強まっているのが分かる。同じ日付の報知は「けさはまたひどい寒さであった」として、東京地方の午前6時の「草上気温」が氷点下12.1度を記録。酷寒だったと報じた。