これに対して、松尾組側は「砲身七尺(約2メートル10センチ)余の鴨撃ち銃を搬出し来たりて、これを旭硝子会社社宅前に据え付けて」「赤組へ向け発砲し、赤組の者らをして辟易せしめた」(一審判決)という。事件を題材にしたノンフィクションノベルで雑誌連載を単行本化した青山光二「闘いの構図」(1979年)によると、猟銃の弾100発分の散弾が一度に発射できたという。一部の新聞まで「大砲」と書いたのはこの銃のことのようだ。
検挙者数も新聞によってバラバラ。肝心の死傷者も警察発表がないまま各紙の独自報道になっている。三谷秀こと金井秀次郎と中田峯四郎、青山美代吉と松尾嘉右衛門の行方はいずれも不明のまま。各紙には、乱闘にまぎれて潮田の酒店に大勢の男たちが押し入り、酒を飲み、こも樽や売上金150円(現在の約24万円)を奪ったというニュースも見られた。
「油断したのが手落ちだった」が、「手配の点には失態はない」
警備の責任者である蔵原・神奈川県警察部長は、國民では「油断したのが手落ちだった」と述べた一方、萬朝報では「手配の点には失態はない」と語った。
各紙には論評が見え始め、読売が社会面コラム「我等の主張」で「公序良俗の大破壊」と題して取り上げた。全く無関係の人に被害を及ぼした点からも軽視できず、「当局の措置についても非難の余地の存するように思われる」と述べた。
報知も1面コラム「その日その日」の短評で「鶴見の町を暗にして電車が止まったとは昭代(太平無事の世)にあるまじき奇怪事だ。これを未然に防ぐことができなかった責は誰に」と記述。
時事も1面コラム「時事小観」の短評で「平素の凶器取り締まりの疎漏をも語る。今度の始末が警察の不用意によるのはもちろんだ」と厳しかった。
12月23日付読売朝刊には、三谷秀組側の復讐心が旺盛で、松尾・青山両組の親分の首に1万円(現在の約1600万円)の懸賞金が懸かったといううわさがあると報じた。また、同紙を含め数紙には、国粋会関東本部幹事の篠原縫殿之助と東京・蛎殻町の顔役・伊藤初五郎の2人が神奈川県知事らにけんかの仲裁を申し出たと伝えた。
木下半治「日本国家主義運動史 上」(1952年)によれば、(大日本)国粋会関東本部は1919年、当時の原敬内閣の内務大臣・床次竹二郎の肝いりで創立された「大日本国粋会」の地方団体だったが、内部対立から関東系が事実上独立。
本部同様に博徒や侠客らが加わっていたが、特に「勢力範囲が侠客陣の本場たる関東侠客のそうそうたる所を網羅していた」。立憲政友会寄りの色彩が強かった国粋会本部に比べて政党色は薄かったが、同じように労働運動、社会主義運動、水平社運動などを攻撃したほか、大相撲の天龍らによる造反「春秋園騒動」にも関与するなど、トラブル調停にも暗躍。篠原も博徒の親分だった。