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日を経るに従ってますます悪化。今にも血の雨が…

 その後も20日付朝刊で都新聞が「警官隊を挟んで 六百名が睨(にら)み合ふ(う)」、21日付朝刊では東京日日(東日=現毎日)が「土工五百餘(余)名 相對(対)峙す」、國民新聞が「六百名睨合ひ 今にも血の雨」、時事新報は「鶴見物騒 仕事師の争ひ」とそれぞれ報じた。21日発行22日付東日夕刊は緊張が飽和点に達しつつある雰囲気を伝えている。

対立は「今にも血の雨」の緊張状態に(東京日日)

大阪からも繰り込み 千名の土工睨合ひ 今にも血の雨、降らんず勢ひで 殺気漲(みなぎ)る鶴見界隈

【川崎発】神奈川県川崎市南町(現川崎市川崎区)、土木請負業大親分・金井秀次郎の率いる三谷秀組と、金井配下の鶴見町潮田、土木請負業・松尾嘉右衛門及び青山美代吉に属する松尾及び青山組との紛擾(ふんじょう=争いごと)は、日を経るに従ってますます悪化し、21日も降雨中ににらみ合いを続けている。松尾組の応援隊は21日早朝、大阪及び東京方面その他から二百三十余名乗り込み、総勢七百余名となった。一方、三谷秀組の応援隊も、東京その他から海上を伝馬船で続々繰り込み、双方千名に余り、殺気がみなぎっている。

 松尾・青山組は潮田事務所付近の空き地に十間(約18メートル)四方に余る大バラック2戸を急造し、炊き出しをして応援隊の気勢を挙げている。三谷秀組では、川崎市外田島町海岸、東京電力会社火力発電所の人夫部屋を増築して、これまた応援隊や子分を収容。双方とも襲撃及び防戦準備その他について画策中である。神奈川県警察部からは、島川刑事課長をはじめ横浜各警察から応援警官隊二百余名が出張。大田・川崎、山口・鶴見両署長はこれらを督励し、厳重警戒中である。

微妙なバランスで続くにらみ合い…なぜこんなことに?

 東日の記事はこの後、そんな中で緊張が一種のバランスを保っていることを指摘している。

 この争いは近来にない大げんかとなったが、双方とも紛擾が解決しなければ問題の請負工事には着手せず、また双方とも、相手が挑戦してこなければ、いつまでも手を出さずににらみ合いのまま継続するらしいので、有力な調停者が仲裁に入らない限り、相当けんかは長引く模様である。

 その危ういバランスは予想外のハプニングによって破られるが、その前に、どうしてこうした事態に至ったかを見ておこう。経緯が最も分かりやすい「神奈川県警察史上巻」(1970年)の記述を再構成する。

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1.三谷秀こと金井秀次郎は京浜間、鶴見、川崎方面において土木請負業者間に強大な勢力を持ち、関東一円に多くの配下を擁していた。中田峯四郎は三谷秀の一の子分といわれ、三谷秀事務所の事務一切を処理して実権を握り、親分をしのぐほどの実力者だった。ことに鶴見、川崎における請負工事は彼の事前の了解を得るか、工事費の歩合金を出すかしなければ工事は完了できないといわれていた。勢力は大きく、他の請負業者に圧力をかけては事業を圧迫し、同業者からひどく恨まれていた

2.松尾組の社長、松尾嘉右衛門は1920年ごろ土木請負業を始め、成功を収めて資産約10万円(現在の約1億6000万円)を持ち、多くの配下を有するほどになった。土木稼業を一層盛大にするため1923年の夏ごろ、中田を兄分として兄弟の杯を交わした。しかし、三谷秀とは特別の関係はなく、事件の前にも請負工事をめぐる三谷秀と他の業者とのトラブルの仲裁に入ったが、その業者の現場の人間が三谷秀組員に殺害されたことから「三谷秀に顔をつぶされた」と内心憤慨していた