3.青山美代吉は鳶(とび)の「青山組」を営む一方、三谷秀の弟分だったが、さらに事件前、中田の弟分にもなった。(「神奈川県警察史」に記述はないが、「青山組」は名義上は美代吉が親分だが、実質的な権力は美代吉の義兄・芳蔵が握っていた)
そしていよいよ大規模発電所工事の話が…
こうした“布石”の下に問題の工事が持ち上がる。1925年4月、東力が田島町の東京湾埋立地第4区に工費1310万円(現在の約462億円)をかけて火力発電所を建設することになった。
4.建設工事のうち、第1回の基礎工事は競争入札の結果、間組(現・安藤ハザマ)が落札。間組は従来通り三谷秀に下請けさせた。第2回の水路工事についても間組が落札し、田島町の請負業者に下請けさせた。しかし、三谷秀の妨害に遭って工事に着手できず、業者は松尾に援助を求めたため、松尾は一層三谷秀に悪感情を持つようになった。第3回の建物建築工事は間組を除いて入札が行われ、清水組(現清水建設)が落札。清水組は下請けを青山組に決めた。工事は完成を急いで基礎工事と並行して進めなければならず、基礎工事は既に三谷秀組と中田峯四郎の組が着手していたため、中田らの了解を得なければ工事を進められない事態だった
5.そこで青山は中田に親交を求め、中田は間組が建築工事入札から外されたのは清水と青山の陰謀と疑っていたが、表面上は協力を約束。名義上の請負は間組の主任社員の名前にして実際の工事は青山が進めることで手を打った
6.しかし、工事の見積額が清水組と間組とで大きな開きがあったことから、工事に着手できないまま4カ月が経過した。青山は、裏で三谷秀らが暗躍していると判断。事情を話して松尾に助力を求めた。松尾はこれまでの積み重なる手口に憤慨。三谷秀との衝突もやむを得ないと覚悟するに至った。こうした状況の中で工事のくわ入れ式が行われることになり、松尾はひそかに仲間の糾合を図った。
7.12月17日夜、三谷秀の子分で松尾のところにも出入りしていた地元のレンガ職人の親方が訪ねると、松尾は「これからは三谷秀組を全滅させてしまうつもりだ」と言った。親方はそれを三谷秀に報告。三谷秀は中田に知らせ、松尾に対する応戦の準備を進めた。その緊張した空気は松尾側にも伝わった。松尾と青山は手を結び、三谷秀と中田の打倒を誓い合った。18日、松尾は中田に絶縁状を送り、両陣営の対立は決定的となった
漂う不穏な空気の中、警察は何をしていた?
これに対して、警察側も手を打っていなかったわけではなかったと「神奈川県警察史上巻」は説明する。
同書によると12月19日、「中田峯四郎が手下60~70人を連れて船で発電所建設現場に向かった」との情報を受けた川崎署は車で先回りして動きを押さえた。
その後も三谷秀側が松尾側に斬り込む計画がうかがえたため、鶴見、川崎両署は計174人の警備部隊を編成したうえ、神奈川県警察部に応援を要請。同日夜には三谷秀と中田に暴力行為をしないよう警告した。
翌20日には松尾・青山側からもピストルや日本刀を押収。間組、清水組、東京電力の幹部を呼び、和解による衝突回避を要請し、承諾を得た。その結果、両陣営とも平静を取り戻しかけたが「依然として不気味な鳴動はやまなかった」(同書)。