両陣営は紅白のたすきをしていたことから「赤組」「白組」と呼び分けられるようになる。これは、同士討ちを避けるため、両陣営が電話で取り決めたという。けんかにも一種のルールがあったのか。
付近に住む女性と子どもを弾丸が…
この記事でも、発端となった応援組を大阪からとするなど、各紙とも事実関係には誤りが多い。比較的正確だったのは東日だろう。
請負業三谷秀組対松尾組の紛擾は形勢刻々に悪化し、21日、(鶴見町潮田の)浅野造船所前広場を中心に小競り合いは幾度か繰り返された。三谷秀組は赤だすき、松尾・青山組は白だすきを掛け、決死の覚悟でピストル、猟銃などを撃ち合った。付近に住む菅谷りき(24)の左胸部を流弾が貫通。背負っていた長女しづ子(3)の頭部にも当たり、親子2人とも生命危篤に陥った。通行中の東京・日本橋馬喰町、中村某ほか3名も散弾を浴び、いずれも頭部その他に負傷したので、真田病院と浅野共済病院に収容。手当中である。
一般市民までが巻き添えになり始めた。この撃たれた親子を読売は「即死す」、國民は「二町民射殺さる」と誤って報じた(結果的に民間人に死者はいなかった)。東日の記事は続く。
銃弾が電車運転手を貫通。残された乗客も…
夕刻に至り、三谷秀組事務所を中心とし、海岸の線路一帯にわたって戦線が伸び、至る所、白刃ひらめき銃弾飛び、さながら戦場のごときものすごさである。午後5時ごろ、海岸電車4号が総持寺を発して大師に向かう途中、これも浅野造船所前で、流弾が運転手・伊藤市太郎(27)の右肩を貫通。重傷を負ったため運転不能となった。続いて2号電車はガラス窓をメチャメチャに破壊され、運転手、車掌は恐怖のあまり、電車を捨てて逃げ出したので、残された乗客も先を争って避難したが、うち数名が負傷した。
戦機は時を経るに従って三谷秀組が不利に陥るので、川崎から赤たすき隊四十余名が決死隊として応援に向かったが、鶴見―潮田間の旧国道で警戒中の警官に追い払われた。その時通りがかりの京浜間トラック商会運転手・江畑與助(24)は三谷秀組のためけさ斬りにされた。
海岸電車は京浜電鉄が経営する路面電車でこの年全線開通したばかり。伊藤運転手のけがは東日の記事ほどではなかったが、午後5時以降運転を休止した。事件後は、鶴見臨港鉄道(現JR鶴見線)との競争に敗れて赤字経営に陥り、1938年、廃線に。線路跡は産業道路となった。東日の記事は警察の体制にも触れている。
出動した警官隊は1000名近く
出動した警官隊は1000名近く。蔵原・神奈川県警察部長が総指揮官となり、地元の鶴見署長、横浜の各署長もはせ付け死に物狂いの警備をしている。一方、横浜憲兵隊から隊長・水野中佐が上砂大尉以下40名の隊員を率い、白だすき隊の重囲に陥った三谷秀組事務所を固め、警戒おさおさ怠りない。午後9時20分、松尾組数百名が三谷秀組事務所に殺到し、決死の争闘を演じたが、西川・横浜神奈川署長が慰撫したので、三谷秀組百余名は血路を開いて東京電力火力発電所付近の埋め立て地へ引き揚げ、その後双方にらみ合い、休戦状態。付近の住民は人心恟恟(恐れおののく)として、夕刻から雨戸を閉ざし、通行途絶のありさまである。
記事は続いて、憲兵2人、警官4人が負傷したほか、死傷者を次のように報じた。「松尾・青山組、重傷者48名。三谷秀組五十余名。即死者3名」。見出し通り、死傷者が100人を超える「大げんか」だ。死者はその後1人増え、両陣営2人ずつの計4人となった。