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連載大正事件史

1400人が市街戦で血の雨が…日本刀、ピストルが大量に押収された「日本最大級の大喧嘩」とは何だったのか?

1400人が市街戦で血の雨が…日本刀、ピストルが大量に押収された「日本最大級の大喧嘩」とは何だったのか?

鶴見騒擾事件#1

2022/11/06
note

タクシーが間違って「敵」の事務所近くに

 12月21日午後、警察は双方の所持する武器類を全部押収しようと任意提出を求め、衝突回避工作は軌道に乗りつつあるように見えた。その時――。

 東京・日本橋中州町の中村清吉方、岡崎末吉(29)が十数名の者と松尾組見舞いのため、東京駅から省線(現JR)に乗り、桜木町で下車した。21日午後2時ごろである。彼らは駅前から横浜タクシー3台に分乗し、東海道を鶴見・潮田に向かった。しかし、運転手が道を間違え、こともあろうに三谷秀組事務所の近くで松尾組事務所へ行く道を尋ねた。たまたまこの状況を三谷秀組の者が見て松尾組の襲撃と勘違いし、慌てて事務所にこの旨を告げた。

 この急報に三谷秀組はたちまち殺気立った。事務所の不穏な動きを察知した岡崎らは急いで逃げようとしたが、遅れた1台が三谷秀組の大勢の者に取り囲まれた。いきり立った三谷秀組の者は理由を聞こうともせず、車の中の3名を引きずり出し、殴る蹴るの暴行を加えた揚げ句、1人を短刀で刺し、いずれも瀕死の重傷を与えた(「神奈川県警察史上巻」)。

 三谷秀組は松尾・青山組と同じ鶴見町潮田に現場事務所をつくっていた。両陣営の手下たちが殺気立って街の辻々を見張っているさなか、こうしたトラブルはいつ起きてもおかしくなかったのかもしれない。

事件の現場となった鶴見・潮田周辺(「鶴見区史」より)

「警察の和解工作は一瞬にして吹き飛んだ」

 午後4時、松尾組は負傷者の1人を自分たちの事務所に運び込んだ。この突発事件のため、警察の和解工作は一瞬にして吹き飛んだ。松尾・青山組は直ちに配下250名に殴り込みの準備を命じた。事態の急変を知った警察は極力慰撫に努めたが、激高した彼らを静めることはできなかった。松尾組側の一団はたちまち警察の警戒線を突破し、三谷秀組の事務所に向かって激しく押し進んだ。

 こうして松尾・青山の混成集団は浅野造船所前空き地まで陣を進め、近くの三谷秀事務所に向かって猟銃などによる発砲を始めた。一方、三谷秀側においても、松尾側の襲撃は予期していたところであり、配下約200名をもって応戦態勢を整えていた。そして松尾側を迎撃するため潮田埋め立て地に進出した(同書)。

「銃弾飛び白刃閃き」

 翌12月22日付朝刊各紙はほぼ全紙が衝突を社会面トップで大々的に報じた。「銃弾飛び白刃閃(ひら)めき 遂に死傷、百餘名を出す 土工團(団)の紛擾大亂(乱)闘と化し 宛(さなが)ら戦場の鶴見郊外 無殘(残)、通行人にも流彈(弾)劍(剣)戟」(東日)等々、すごい見出しの新聞もある。

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ついに激突。各紙は大きく報道した(東京日日)

 読売の本文リードもなかなかのものだ。

 21日午後4時ごろ、青山組方へ大阪から15名の応援隊が自動車3台で繰り込んだところ、潮田硝子会社の狭い前を通過する際、警戒中の三谷秀組と衝突した。三谷秀組がやにわに3名を日本刀でけさ斬りにしたので、ここにいよいよ戦端が開かれた。双方かねて用意していたピストル、日本刀、竹やり、短刀を持ち出し、浅野造船所前広場で大乱闘となり、旭硝子会社前広場及び元飛行場の跡、潮田小学校横、新国道下町の5カ所で白、赤のたすきを目印として入り乱れての渡り合い。剣戟の光、ピストルの音、やがて斬られる人のうめき。そのものすごさ、あたかも明治維新の戦争をしのばしめるものがある。