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「法律新聞」1927年6月10日号は「予審においては、けんかの原因は赤組にありとし、検事の求刑も赤組に厳しかったが、公判ではけんかの原因は両方にありと認められ、両者の大将はおのおの4年ずつの懲役を言い渡された」としている。

恩赦当て込んだ控訴取り下げも続々

 実刑を受けた59人のうち57人と執行猶予付きでも不満だった2人の計59人が控訴した。しかし――。

 1928年11月9日付東朝朝刊に「上告や控訴の取下げ續(続)々」という記事が見られる。翌10日の昭和天皇即位礼に伴う恩赦を当て込んで、控訴や上告を取り下げる被告が続出しているという内容。「控訴中の鶴見事件の被告も大部分取り下げて服罪し……」と書いている。

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 中田峯四郎も控訴を取り下げ、1930年5月8日の控訴審判決を受けたのは36人だった。松尾嘉右衛門、宇和島清蔵ら計5人は無罪。他の31人も執行猶予付きか罰金刑だった。「法律新聞」5月18日号は「極めて寛大な判決言い渡しがあった」とした。「白組」にやや厳しかった一審判決を修正したということのようだ。

けんかの“勝ち負け”

 実際、けんかの勝ち負けはどうだったのか。三谷秀組が土木請負と博徒の2つの顔を持っていたのに対し、青山・松尾組はいずれも「鳶(とび)」と建設業者という“素人”。けんかにかけては三谷秀組が優位にあった。

 しかし、乱戦の中、組員が出はらった一瞬のすきを突いて、青山・松尾組の「特攻隊」が「ついに三谷秀事務所に殺到し、次いで(系列の)早乙女事務所につるしありたる(三谷秀組の)立て看板を取り外し、味方の者をしてこれを青山組事務所へ持参せしめ、群衆とともに万歳を高唱しながら同事務所へ引き揚げ」(一審判決)という局面があった。

 このことから世間では「青山・松尾組の勝ち」という評判が広がり、金井秀次郎は「部下をかばわなかった」とされたこともあって面目を失い没落した。

 中田は恩赦を受け、1年足らずの服役で出所。請負業を続けた。松尾はこの事件で“男を売り”「京浜一の親分となり、その名は全国に伝わった」(「財界」1955年10月号)。

松尾嘉右衛門はのちに地域の名士になった(読売)

 その後も事業を拡張。敗戦直後には貴族院議員に。戦後は神奈川県知事選をめぐって河野一郎・元副総理と対立するなど、県政界にも影響力を持った。青山美代吉は公判途中で性病が悪化。間もなく死んだ。

事件はのちに「現代の荒神山」とも呼ばれた(読売)

 事件はのちに「現代の荒神山」などと呼ばれ、地元で伝説化した。「鶴見騒擾事件百科」によれば、新聞記事をネタに講談が作られ、各地で上演されたという。1971年には事件をモデルにした映画「暁の挑戦」(舛田利雄監督)が公開された。