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「電力」をめぐる激しい攻勢と事件の背景

「電力戦」というのは、この時期の日本の電力会社の激烈な争いのこと。第一次世界大戦を契機に造船輸出が急増。鉄鋼・機械生産が拡大し、石炭と電力の需要が増した。都市化の進行と重化学工業の規模拡大が加わり、電源開発が進んで各地に電力会社が生まれた。

「(19)10年代末ごろから各地で合併・買収などの合同運動が展開されるようになった。その中で20年代半ばには関東・関西・中部地方を中心として東京電燈、東邦電力、大同電力、宇治川電気、日本電力の『5大電力』と呼ばれる電気事業が形成された」=「関東の電気事業と東京電力」(2002年)

 首都圏を押さえていた東京電燈に激しい攻勢をかけたのが、「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門率いる東邦電力が新たに設立した東京電力(東力)で、発電所建設は戦いの最前線。その「電力戦」が鶴見騒擾事件の背景の1つだった。

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「電力の鬼」松永安左エ門(「東邦電力史」より)

「日本土木建設業史」はさらに重要なことを書いている。

「鶴見騒擾事件顛末書」によれば、事件前日の1925年12月20日、青山美代吉は清水組本店で内山から「戦闘準備金」として2000円(現在の約320万円)を受け取った。さらに事件当日の21日には、青山組の2人が内山から事件関連費用として3000円(同約470万円)を受領したが、受領証の名目は内山の希望で工事費とされた。

 同じ2人が事件後の12月24日にも1000円(同約160万円)を受け取るため訪れたが、内山は「いま組から金を出すと騒擾を教唆したことになるから、君らが5000円(同約790万円)立て替えて出しておいてくれ。必ず返すから」と言ったという。

「解決金」に「3億円」!?

 一方の間組。「間組百年史1889―1945」(1989年)はこう書いている。

「下請け会社間の抗争とはいえ、東京進出後まだ日が浅かった当社にとっては、一つの試練ともいえる出来事であった。しかし同時に、これによって間組の名が知られることになり、思いがけずも関東の業界に一定の市民権を確立するきっかけともなった」

 やはり事件とは無関係のように書いている。本当だろうか。鹿島精一・宮長平作・島田藤共著「日本の土木建築を語る」(1942年)の座談会で、小谷清・間組社長は「鶴見騒擾事件の話を聞きたいものですね」と共著者に水を向けられ「いや、もうあれはみんなによく分かっているから……」と口ごもり、「真相はよく分かっていないですよ」と言われて「私の方が下(基礎の意味か)をやっておったのです」「その上を清水さんがやることになって、その下請けの者同士のけんかだったわけです」と答えた。

 さらに「解決をつけるのに20万円(現在の約3億2000万円)くらいはかかったでしょう」と問われ、否定せずにこう語っている。