なぜ巨大な駅が2つできたのか
新快速の高槻駅と阪急電車の高槻市駅、開業したのはもちろん高槻駅の方が先だ。高槻駅の開業は1876年。大阪駅と向日町駅までの間が開業したのと同時に誕生した。その時点では、唯一の中間駅だった。
となればそれなりに駅周辺も栄えていたと考えるのが自然だが、実際はそうでもなかったようだ。開業当時の高槻駅周辺は、旧宿場町が近いくらいで取り立てて何があるわけでもない場所だった。
ならばなぜ駅が設けられたのかというと、やはりひとつには西国街道芥川宿の存在だろう。大坂にも京都にも近いから、参勤交代の大名が宿泊することは少なかったという。
ただ、幕末には1000人以上の人が暮らし、旅籠は33軒、253の家屋が並ぶ賑やかな宿場であった。そうした宿場の近くに線路が通れば、駅が設けられるのも自然な流れだ。
じつはキリシタン大名の城が…
加えて、高槻にはもうひとつの顔があった。近世高槻藩の城下町、である。
高槻藩は主に譜代の永井氏が治めた小さな藩で、拠点は阪急電車高槻市駅より南に少し離れた場所にあった高槻城だ。キリシタン大名の高山右近の居城としても歴史に名を残すこの城は、いまでは城跡公園として整備されている。高槻市駅から商店街を抜けて南に行けば、高槻駅・高槻市駅に挟まれた繁華街とはまったく違う趣の静かな町に出て、その先にあるのが高槻城だ。高槻市駅の南側一帯は、その城下町だったということになる。
ただし、高槻城下はそれほど栄えていたわけではなく、幕末の人口は2000人程度。むしろ同じ高槻市内においては教行寺の寺内町で酒造も盛んだった富田のほうが栄えていたようだ。
ともあれ、高槻駅は北に西国街道芥川宿、南に高槻藩の城下町というふたつの地域の拠点に挟まれた場所に設けられた。それぞれの町から鉄道へのアクセスを考慮して、開業した駅だったというわけだ。1928年には新京阪鉄道(現在の阪急京都線)が開通し、高槻市駅も開業している(開業時は高槻町駅)。
ジーエス・ユアサにパナソニック…関西企業を支えた「高槻」
こうして鉄道の恩恵に浴した高槻の町。大阪・京都に近い地理的条件は実に恵まれていて、大正の末頃からいくつもの工場が進出している。そのひとつが湯浅蓄電池(現在のジーエス・ユアサ)。1919年に高槻駅北側に工場を設けた。2005年に閉鎖になったこの工場の跡地が、MUSEたかつきになっている。
このほかにも戦後になると高槻駅前から茨木市方面にかけて、松下電子工業(現在のパナソニック)や明治製菓(現在の明治)などの工場が建ち並び、高槻は一躍工業地帯になった。高槻駅と高槻市駅の間が市街地化していったのもとうぜんの流れであった。