そして1970年代以降、大阪・京都のベッドタウンとして開発が進み、飛躍的に人口が増加する。1965年には13万人程度だった高槻市の人口は、10年後の1975年になると33万人を超えている。1979年には高槻駅が橋上化して現在の駅舎にリニューアル。松坂屋が開業したのもこの年のことだ。
いよいよやってきた新快速。しかし…
そしてちょうど高槻の人口が爆発的に増えていたこの時代、新快速電車の運行がはじまっている。新快速のデビューは1970年。しかし、その時点では高槻駅は停車駅ではなかった(そもそも京都~西明石間で途中停車駅は大阪・三ノ宮・明石の3駅だけだった)。ようやく高槻駅に新快速が停まるようになったのは、1990年のことだ。
ただ、このときも高槻駅に停まる新快速は平日の昼間だけ。人口30万人を超え、大阪・京都方面への通勤者も多いいわば大ベッドタウンにしてみれば、ずいぶん軽視されているような気がしたことだろう。ただ、そんな大きな町ですらスルーして一目散に京都・大阪を結ぶあたりに、新快速の“プライド”が感じられなくもない。
結局、新快速は少しずつ高槻駅に停車する列車の数を増やしていき、1997年に至って全列車が停車するようになった。この時期には人口はほとんど横ばいになっていたが、地元の人たちにとっては待望の「新快速全列車停車」だったことだろう。
北口の開発が本格的に始まったのはそれ以降。2004年にアル・プラザ、2012年にMUSEたかつきが開業している(ちなみに阪急は1971年に開業した西武高槻店がルーツ)。
大阪と京都、ちょうど中間の町
かくのごとく、大阪・京都のちょうど中間という地理的条件に恵まれた高槻は、大いに存在感を高めてきた。新快速の停車がやや遅れた感も否めないが、結果としていまでは京阪間における新快速停車駅として唯一無二の存在になっている。
加えてベッドタウンとしての役割にとどまらず、西国街道芥川宿にはじまる旧宿場町の面影も残り、一方で高槻城下町の雰囲気もほのかに感じられる“歴史の町”。高槻に暮らしている人でなくても、歩いてみればそれなりに楽しめるのではないかと思う。
そういえば、2024年には関西将棋会館も現在の大阪市福島から高槻駅前に移転してくるという。その場所はアル・プラザのすぐ隣、いまはバスの駐車場として使われているところだ。将棋会館ができたところで町がどうなるものでもないかもしれないが、高槻は“将棋の町”として名を轟かせることになり、新たな“ウリ”を身につける。やはり、大阪・京都のどちらにも近く、新快速も停まるターミナルは強力なのである。
写真=鼠入昌史
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