誰からも自分の身体を侮辱されず、脅かされずに生きたい。それが「私」、加々見光(かがみひかる)の人生の願いである。光は大柄で骨太に生まれたが、「このどこもかしこも張り出した大きな体がきらいではない」。心底嫌な気持ちになるのは、他者からの「侮辱」に対してであり、「私の体そのものに対してではない」。光が重視するのは「みんな、違う体を生きている」という当たり前の事実だ。体が違うから、他者と完全にぴったりと分かり合うことはできない。中学生の頃に出会い、のちに結婚した虎治とも、「違う体」を擦り合わせて、互いに違和感をも抱えながら、ともに生活を積み重ねる努力を続けるしかない。
やがて子育ての日々の中で二人の断層は深まる。息子の新(あらた)は運動が苦手で、虫を怖れ、周りの乱暴な男の子たちから馬鹿にされる。我が子を苦しめる男子的価値観を母である光は嫌悪する。しかし虎治は、舐められたら生き残れない、それが「男社会の不文律」だ、という考えに固執する。なぜか。自らがそうした現実に苦しみ、「俺みたいなしんどい思い」を我が子にしてほしくないと願うからだ。
夫は「男らしさ」の呪縛を解毒できずに心身を閉ざしていくが、妻は偏見や差別的意識にとらわれず、働く女性として、一人の人間として解放されていく――のであれば、読者は本書を安心して読み進められるだろう。だが時間と生活は、光の側にも何一つ容赦をしてくれない。成長した息子は軽やかに、あるいは冷淡に親元から離れていき、いつしか光は自分で自分を好きになれなくなる。手に入れられたはずの成功にとらわれ、かつての同僚女性の成功への毒々しい嫉妬と憎悪にまみれていく。
光は息子が4歳の時、西日が射しこむプールで水滴が作り出した「かんむり」を目にしてそこに「私の人生に突如授けられた祝福」「完全なかたちで、輝くもの」を感じ、その神秘的経験を人生の支えとした。ならば今や夫や我が子との距離を感じ、仕事の成功からも見放された光は、どこに自分だけの「かんむり」を見出すのか。本作の終盤は、彼女の試行錯誤の困難を、そして作者自身の真摯な混乱を痛々しいまでに示す。晩年、ひとり海の輝きに魅入られる光の中にあるのは、諦観の果ての破滅的衝動なのか、新たな解放の予兆なのか。その表情を皆さんも自分の目でのぞきこんでほしい。
ところで本書を男/夫の側から見つめ直したらどうだろう。年を取って右寄りの政治談議を振り回す虎治は、息子から疎まれる。寿命を迎える直前の虎治と光の会話には、冷たい恐怖(ホラー)がある。男たちばかりが勝手に人生と和解し、女性に感謝し、「すっきりと」死んでいくのだとすれば。はたして男たちは他者の、そして自分の「違う体」と真に向き合っていると言えるのだろうか。男たちの頭上に「かんむり」が輝く日は来るのか。
あやせまる/1986年、千葉県生まれ。2010年「花に眩む」で「女による女のためのR‐18文学賞」読者賞を受賞しデビュー。18年『くちなし』で高校生直木賞受賞。ほかの著書に『やがて海へと届く』『川のほとりで羽化するぼくら』『新しい星』など。
すぎたしゅんすけ/1975年生まれ。批評家。著書に『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か』『男がつらい!』など。