飢饉、重税…植民地時代にインドで何が起こったか
19世紀末にインドを植民地化した英国は、国内を円滑に統治するために様々な施策を行いました。その中の一つがインドの人々を分断し、団結して反乱を起こさないようにすることでした(分割統治)。
英国は、ヒンドゥー教徒とムスリム(イスラーム教徒)の対立を煽ったり、元々あったカーストを強化したりして、英国への不満を他へ逃しました。これは、1857年のインド大反乱のときに、ヒンドゥー教徒とムスリムが団結して英国に反旗を翻したことの教訓でもありました。
一方で英語教育をすすめ、インド人も参加できる議会を作りました。インドの支配者層を取り込み、彼らの思想を英国の思想と同化させ、統治を円滑に行おうと考えたからです。
しかし英国の思惑とは裏腹に民族運動が広まり、英国に協力的な穏健派だけではなく過激な主張をする派閥も現れ、自治独立を求めはじめました。
インドはもともと一つの国ではなく、言語も風習も違う国々の集まりでした。英語が共通語となったことで、インドの人々が意思疎通しやすくなったことも独立運動の広がりに関係しています。
英国への反感が強まった背景には、英国の植民地支配が過酷だったことがあります。19世紀末のインドでは何度も大規模な飢饉が起こりました。良い農地に綿花やアヘン、藍などの商業用の作物を植えたことも原因の一つです。
20世紀には開墾も進められ飢饉は少なくなりましたが、それでもインドの大多数の人々は重税に苦しんでいました。
英国はインド人を裁判無しで投獄できるように…
英国は独立運動の高まりを受け、第一次世界大戦に協力する見返りにインドの自治を認めるという約束をします。約束を信じたインド人たちは兵も物資も莫大な資金も提供しましたが、戦争が終わっても、英国はインドを手放そうとしませんでした。このことにインド人たちは大いに怒ります。
特に1918年は世界的にインフルエンザが大流行し、パンデミックによりインドでも多くの人が亡くなった年でもあります。第一次世界大戦の影響で食料の価格が上がり、食料暴動も起こりました。生きるか死ぬかの瀬戸際で英国への不満が最高潮に達し、暴動やテロが頻発しました。
そんななか、英国は治安維持法であるローラット法を作り、インド人を裁判無しで投獄できるようにしました。これにはあのガーンディーも声をあげ、インド各地で大規模な反対運動が起こります。
そしてついに、北インドのパンジャーブ州アムリットサル、ジャリヤーンワーラー・バーグで集会してた群衆に、ダイヤー准将率いる英国軍が無差別発砲するという大事件が起こってしまいます。