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ハートが自らを「詐欺師」と呼んだワケ

 ハートの苦悩は、戦後も続く。彼は戦前に8年間ロンドンで弁護士を務めたあと、戦中は諜報部(MI5)で働き、そこでライルやスチュアート・ハンプシャーらオックスフォードの哲学者たちと哲学の議論を楽しんだ。そのこともきっかけとなり、戦後はニューコレッジの哲学フェローとして1945年にオックスフォードに戻ってくることになる。

 だが、言語哲学が流行している中、戦前の哲学教育しか受けていなかったハートは、とくに最初の2年間はチュートリアルに相当苦労したようで、自身の日記では学生が自分のことを愚かだと思っていると書いたり、「詐欺師であることだけでも十分に悪いことだが、失敗に終わった詐欺師であることはあまりに屈辱的である」と書いたりして、今日「インポスター・シンドローム」と呼ばれる劣等感に苛まれている。

 自分がユダヤ人というマイノリティであることについても複雑な思いを抱いていたようだ。(注3)

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オックスフォード大の植物園の入口付近にある記念碑。ここにはかつてユダヤ人の墓地があったことや,13世紀末には英国からユダヤ人が350年にわたって追放された歴史があることが記されている。

 もっとも、多くの学生たちは彼の内面の苦しみには気づかず、ハートの薫陶を受けたジェフリー・ウォーノックのように、ハートのチュートリアルを高く評価していた者もいた。(注4)

 レイシーの伝記は当時のオックスフォード哲学についても詳しく紹介していて非常におもしろいが、そこは関心のある人に読んでもらうことにして省略する。(注5)

 ハートはバーリンの勧めもあってオースティンと親しくなり、「土曜朝の研究会」に出席して言語哲学を学ぶ。それと並行して、オースティンと一緒に判例を基に弁解(excuses)について検討するセミナーを行い、自分が貢献できる領域があることに気づく。哲学での独創的な研究が評価されたハートは、1952年に法哲学教授に選出される。

妻にスパイ疑惑? 尽きないハートの悩みの種

 もう一つハートの悩みの種は、妻のジェニファーのことだった。ジェニファー(旧姓はウィリアムズ)は1914年生まれで、ハートの7歳ほど年下である。彼女は1935年にオックスフォード大のサマヴィルコレッジを優秀な成績で卒業し、難関の試験を受けて36年に公務員になった。その頃にハートに出会い、1941年に結婚する。

 その後も公務員として働き続けたが(主に内務省で警察関係の仕事をした)、ハートが戦後にオックスフォードで職を得ると、彼女は公務員を辞めてオックスフォードに移り住んだ。そして1952年にはセントアンズコレッジのフェローになり、現代史を教えた。

 彼女は戦前に共産党員だったため、ソ連のスパイではないかとの噂がかねてからあったが、1980年代にBBCでのインタビューをきっかけにその問題が再燃し、戦中に諜報部で働いていたハートから情報を流していたのではないかという新聞記事が出て大きな話題になった。

 すったもんだの騒ぎの末、結局新聞社が謝罪して一応解決したものの、おかげでハートは深刻な心の病を患った。彼は強い不安と鬱に襲われたあと、精神病院に入院して電気けいれん療法を受け、ようやく何とか快復したという。(注6)